1. はじめに
1.1. ブログを始める。自分がこれまで考えてきたことを書きます。
1.2. 自分の考えを記録するためだけなら、日記を書けば足りる。あえて公開するのは、主に、自分の考えを正確に言い表すためです。他人はなかなかわかってくれないから、読み手として他人を想定すると、それだけで、考えを正確に言い表す努力が必要になる。そういう努力を促す効果を、まずは期待している。
1.3. 哲学の教師を長く続けたから、書く内容は哲学とその周辺の雑感になる。なかでも西洋思想とその誤解をめぐる話になると思う。思いつくままに書いていきます。
2. たましいと知性
2.1. 日本語を母語とする人々(以下では「日本語人」と呼びます)に哲学を教えてみると、西洋語と日本語の思考の習慣のずれ、連想の流れの違い、概念内容の不一致といったものが気になることがある。聴き手の無理解や誤解が気になるというより、自分も現にはまっている落とし穴に気づかされるという方が当たっている。カール・レーヴィットは、1940年頃の論考で、日 本の哲学徒の思考様式について、西洋哲学は西洋のお話として建物の2階に陳列してあり、1階には日本語の日常生活の思考があって、あいだに階段がない、と指摘した(レーヴィット『ヨーロッパのニヒリズム』「日本人読者に与える跋」)。同じことは今も起きている。
2.2. 例えば、「たましい」は、日本語の思考の習慣では、知性とは結びつきにくい。この語は、根源的な力や張りつめた思いを連想させるが、思考力 や論理を連想させはしないと(私には)感じられる。「一球入魂」とか「魂の叫び」の「魂」は、力や思いであって、思考や論理ではないだろう。「たましい」は知性的なものを意味しないようだ。ここで日本語の「たましい」論の例を幾つか挙げるのが普通だが、それは後に回す。折口信夫、柳田國男、鈴木大拙など、多少の心当てはあるけれど、今は先を急ぐ。
2.3. 西洋の伝統では、人間のたましいとは知性的なものだとされることが多い。よく知られている例を挙げる。
「私は考える、ゆえに私はある」(デカルト『方法序説』第4部)
私は「思考するもの」であり、デカルトはこれを「たましい(âme)」と呼んでいる。デカルトのいう思考とは、数学を典型とする抽象的な直観や論理的な推論をいう。その意味で「たましい(âme)」は知性的である。「âme」は「精神」と訳すこともできて、「精神」は知性を連想させるから、訳語を工夫すれば日本語人に生じ得る違和感をあらかじめ除いておくこともできる。でも、デカルトが人間の根源的なあり方を、思考として、つまり知性としてとらえた、という事実は変わらない。
2.4. 現代の日本語人が人間性の根源を一般にどうとらえているのかは、容易に見きわめがたい。人間性の根源を「たましい」と呼ぶとき、あるいは「精神」と呼ぶとき、あるいは「こころ」と呼ぶとき、人はそれぞれ少しずつ違うことを考えているだろう。他方、人間は根底においてむしろ「からだ」である、という人もいるかもしれない。とはいうものの、「たましい」はそういう根源的なものを指し示す言葉の一つではある。すると、人間は根源において思考であり知性であるというデカルトの「âme」についての断定と、知性的なものではないだろうという日本語人の「たましい」についての連想は衝突する。
2.5. この種の衝突は、訳語の工夫で覆い隠すより明るみに出す方がよい。対比を明瞭にしないと、自他の考え方の違いに気づかずにおわる。デカルトは、人間のたましいは知性であると論じた。日本語人は、おそらく、たましいとは知性であると思っていない。
2.6. この違いには、2010年代に入ったころ、哲学の入門講義をしているときに気づかされた。それまで30年以上、デカルト哲学は2階の陳列品、日本語の「たましい」は1階の生活必需品という扱いで過ごしてきたことになる。
2.7. デカルトの考えは、近代(modernity)という体制の基礎を形づくったといわれる。だから、日本語人は、考えの基礎的な部分で、近代という体制からはずれている可能性がある。言い換えれば、人間は知性的な存在であるという自己理解の下に作られた体制を、人間は知性的な存在ではないという自己理解をもつ人々が運転している可能性がある。うまく運転できるんだろうかと心配になる。
2.8. だからなんなんだ? デカルトの考えと日本語人の考えが違っているとして、それがどうかしたのか? という反問がありうる。何某という哲学者と普通の日本語人の考えがはなはだ違っているとして、なにか問題があるだろうか。ありはしない。人はそれぞれ違う考えをもつというだけだ。私は今、人間観が違うと近代という体制をうまく運転できないんじゃないか、という懸念を提出した。そんな懸念にさしたる根拠はないという反論はありうる。そんな反論を想像して、少し考えてみる。
2.9. 第一に、そもそも、デカルト哲学が近代という体制の基礎を形づくったという通念はどこまで正しいのか。一人の哲学者の考えと現代文明の成り立ちとのあいだに直線的なつながりがあるという想定は素朴すぎる。デカルト哲学が近代の基礎にあるという通念は問題を単純化しすぎだろう。ましてや、フランス語の「âme」と日本語の「たましい」の意味上のずれがシロアリみたいに体制の根幹を蝕む、なんていうのは、ほとんど妄想の域に達した思考の短絡である。こんな見解はありうるだろう。
2.10. あるいは、第二に、通念を一応正しいと認めるにしても、近代の基礎は、考える私の形而上学なんかではなく、デカルトによる数学的な自然科学の提唱の方だ。つまり、近代の基礎は、人間観のような主義主張ではなく、数学および自然科学という知識の生産と流通の体制だ。ゆえに、近代をよく生きるためには、その体制を築き上げ、科学技術に卓越すればよろしい。人 間観の違いはとりたてて気にする必要はない。こういう見解もあるだろう。
2.11. もう一理屈こねてみよう。第三に、デカルトの人間観はそのまま認めよう。さよう、人間は知性的な存在なのだ。日本語人がたましいは知性的ではないと誤って思い込んでいるとしても、たましいが知性的なものであることはデカルトのいう通りに正しい。ならば、日本語人も人間である以上は知性的なのだ。万有引力の法則を知らない野蛮人が矢を放っても、矢は法則に従って飛んでいく。誤った人間観をもつ日本語人が近代という体制を運転しても、その体制は人間知性の原則に従って作動するだけである。デカルトが正しいのなら、むしろ心配する必要がないわけだ。皮肉屋はこんなひねった見解を披瀝するかもしれない。
2.12. 第一の見解は的を射ている。近代という体制は、政治、経済、宗教、軍事、教育、家族、性愛などなど、人間生活の全領域を覆う。その全体は、一哲学者の人間理解で特徴づけられるような単純なものであるはずはない。それはそのとおりだ。だから、この見解の妥当性は認めよう。だが、デカルト的な人間観はそういう体制の全体とどんなつながり方をしているのか、という問いは残る。核心に近い部分をなしているのか、それとも端っこの方のあまり本質的でない部分なのか。こういう問いは残るだろう。私は核心に近い部分をなしているとおもう。理由は以下の第二の見解への応答で述べる。
2.13. 第二にあげた見解は、多くの日本語人が心のなかで思っていることに近いはずだ。議論を補うとこうなる。近代という体制の基礎は、科学知識や科学技術の生産と流通の体制(科学の研究教育体制)、および、これにもとづく工業生産と商品流通を支える政治・経済・軍事体制である。デカルト哲学は、旧来のスコラ的自然学を退場させ、新たな自然科学を基礎づけた。この意味で、それは近代という体制の始まりにとって重要だった。「考える私」をめぐる例の古めかしい形而上学でさえも、デカルトの生きた十七世紀には、同時代のヨーロッパ人を説得する修辞的な工夫として自然科学を推進する役には立った。つまり、歴史的な価値はあったのだ。だが、それを現代の我々がありがたがる必要はない。なお、この方向に議論を進めていけば、おのずと和魂洋才という考え方が浮上するはずである。
2.14. この第二の見解には疑念を差し挟む余地がある。考える私の形而上学は、現代の科学的探究という活動とたかだか歴史的にしか関係しない、というのは正しいだろうか。考える私は「私はある」という最初の真理をもたらす。よく知られているように、どんなに疑ってみても、疑っている私はあると認めざるを得ないのだ。疑っている自分はどうしたって今ここにいる。本気で疑ってみれば分かる。どれだけ疑ってかかっても、当の疑いを遂行している「私がいる」のは認めるほかない。何度確かめても間違いないとしか思われない事柄は、真理と認めざるを得ない。(『方法序説』第4部)
2.15. 而して、科学的探究とはまさにこういうもの――くりかえし疑って、何度確かめてもそうなるという真理を発見するもの――ではなかろうか。ならば、考える私の形而上学は、歴史的にだけでなく、探究する姿勢という本質的な部分で現代の科学的探究と関係していることになる。その意味でデカルト哲学は近代科学の核心をなす。それならば、科学技術に卓越するためには、やはりデカルト風の人間理解を本気で〝ありがたがる〟必要があるかもしれない。そして、和語「たましい」が知性を連想させないとすれば、我が和魂がデカルト的懐疑を内部に保つのは難しいであろう。和魂洋才の道は行 き止まりになってるんじゃないか。この点は、たぶん、この先いろいろなかたちで触れることになる。
2.16. さて、第三の見解は皮肉屋の屁理屈である。デカルトの言うとおり、私たちは知性的存在なのだとしよう。しかるに、その知性的存在が、みずからの知性によって近代という体制を運転すれば、まさに知性のはたらきに沿ってしかるべき目的地へ向かうにちがいない。物理学を知らぬ者が射ても矢 は法則に従って進むが如し。よって、案ずることは何もない、云々。この種の言葉遊びは、相手方の言い分を認めるふりをしつつ案件をなかったことにする詭弁である。座興にもならないが、しかし、ひとつだけ考えるべきことを含んでいる。
2.17. 人間が知性ある存在として社会を動かしていくとき、人間の自己理解は、その社会のゆくえを決定する要因の一部になる。物理現象とはその点で違う。矢を放てば矢は飛ぶ。飛ぶ矢は内省しない。ところが、人間は内省し、自分が何者であるかを考え、その考えに沿って、遂行中の活動を続けたり、止めたり、改めたりする。人間は、矢とちがって、みずからの知性のはたらきによって進む方向を変える。だから、我々が知性的だというのなら知性に任せておけばよろしい案ずることは何もない、という皮肉屋の保証は自 家撞着なのだ。人間が知性的であると認めるということは、自分の進む道について思案するということにほかならない。
2.18. あれこれ思案するのをやめればかえってものごとはうまく行くものだ、という思考放棄の奨めは、私たちにとって珍しいものではない。この種の思考放棄あるいは自己放棄の奨めは、日本語人の誰もがどこかで耳にしたことがあるだろう。例えば、もう何も考えたくないという願望がこんなふうに表明された一節がある。
「玄関マットか何かになって一生寝転んで暮らせたらどんなに素敵だろうと時々考える」(村上春樹「タクシーに乗った吸血鬼」同『カンガルー日 和』所収)
取るにたりないものに変身して、何も考えずにそこにあるだけになりたい。これは自己放棄の願望である。ところが、そうはうまくいかないのだ。
「しかしやはり玄関マットの世界にも玄関マット的な一般論があり、苦労があるのだろう」(同上)
天地のあいだに一個独立の玄関マットとしてただたんに存在するだけだったはずなのに、玄関マットの一般論はやはり降りかかってきて、苦労させられる。玄関マットになりおおせても、個と一般をめぐる思考にからめとられる……
2.19. 皮肉屋の披瀝する第三の見解は、あなたまかせの姿勢で知性のはたらきに身をゆだねればよい、と奨めている。だが、知性とは、あなたまかせではいられないという自覚を意味する。別の言い方をすれば、人間の思考は、自分を対象化するはたらきを常にともなう。自分を対象化するとは「私はある」という自覚そのものである。私が玄関マットになったとしても、それが私であるのなら、私は私自身を対象として思考してしまう(眠っているときは除きます)。思考は言語を仲立ちにして一般性へと向かう社会的な行為だから*、結局、「玄関マットの世界にも玄関マット的な一般論があ〔る〕」ことにならざるをえない。
注*: なにげなく言っていますが、「思考は社会的な行為だ」というのは、学界の常識ではないので、証拠を出す必要がある。でも証拠は割愛して今は結論だけ。なお、マイケル・トマセロの『思考の自然誌』冒頭に次のような言葉が見られます。証拠を求める人はこの書物(邦訳あり)を読むとよいと思う。
“Human thinking is individual improvisation enmeshed in a sociocultural matrix.” (Michael Tomasello, A Natural History of Human Thinking. Harvard University Press. 2014. p.1)
「ヒトの思考は、そのひとつひとつが社会文化的な基盤にからめとられた即興なのだ。」
2.20. さて、出発点は、こんな問いでした。人間は知性的な存在であるという自己理解の下に作られた近代という体制を、人間は知性的な存在ではないという自己理解をもつ人々が運転して、それでうまくいくんだろうか。そして、こんな問いは取り上げる価値がないという拒絶反応をまず予想して、三つの拒絶の類型を想定した。(1)デカルトなんか関係ない、(2)考える私なんかどうでもいい、(3)考えなくてもうまくいく。この三つだった。それから、自問自答ではあるけれど、(1)~(3)みたいな考え方で、上の問いに価値がないと結論できるわけではない、ということを述べた。というのも、(1′)かなり関係あるし、(2′)疑って確かめるという姿勢はどうでもいいものじゃなくて、(3′)何も考えずにあなたまかせで行くことは人間にはできないのだから、という理由でした。
2.21. ダイジョブか? 読者ついてきてくれてるか? やや心配だな。心配のタネはまだまだあって、「それでうまくいくんだろうか」という上の問いに正面から答える前に、踏まないといけない段取りがまだあるのです。
①「人間は知性的な存在であるという自己理解」の実質は具体的にはどういうものなのか。
また、これと対比して、
②「人間は知性的な存在ではないという自己理解」の実質は具体的にはどういうものなのか。
この二つを片付けないと、日本語人による近代という体制の運転がうまくいくかどうか、という問いを正確に考えることができない。だからこの二つを本格的に取り上げて考えないといけない。
2.22 でも、さらにその前に、まだひとつやることが残っている。上の、日 本語人は近代社会を運転できるのかという問いへの簡単明瞭な、そして読者がもう思いついているはずの、応答を処理しておかなければいけない。日本は近代化した、これは事実として目の前にある、近代という体制の運転がうまく行ったことは、現在の日本社会のまずまずの成功によってわかるではないか。こういう応答がありうる。しかしながら、現代の日本社会は、近代という体制の大事な部分で失敗している。そう私は見なします(でなければ、日本語人は近代社会を運転できるのか、という問いが浮かぶはずもないわけで)。その大事な部分とは暴力という人間活動です。以下、章を改めます。
改めて最初から読めて嬉しいてす