[4の9] 雑踏の中、詩人はどこへ向かったか:1969年の鈴木志郎康
(西洋近代と日本語人 第4期 その9)
1.はじめに
426. 今回は、前回の議論の訂正から話を始めなくてはなりません。前回は鈴木志郎康の詩論を取り上げて検討しました。その後、取り上げた詩論の中の引用に出てきた「雑踏」という語句の解釈に誤りがあることが判明しました。当初は、誤りの箇所に長めの訂正の注を入れればよいと思ったのですが、やはり全体をきちんと考え直した方がよいようだ、と考えを改めました。
427. 前回、「伝記的事実は確認できていないので推測になりますが」と前置きして、引用の中の「雑踏」を60年代末期のデモや集会の雑踏と解釈しました(4の8:393)。しかし、引用元の文章を後日入手して全体を読んだところ、「雑踏」はデモや集会のことではなかった。著者の鈴木志郎康が勤め先から自宅へ帰る途中で、電車に乗り降りしたり、本屋をのぞいたり、喫茶店に立ち寄ったりするときの、街の雑踏のことだった。雑踏の実質が違っていたので、詩論全体の解釈も改めるべき部分が出て来ます。政治的・時代的な響きが遠のき、個人的・実存的な翳が濃くなる。その詳細については、あとで述べることにします。
2.詩論にいたるまで
428. このところの私の関心事は、1970年代から80年代にかけて、日本の知識的大衆のなかである種の思想的な変化が起きていたのではないか、という問題です(4の8:376)。この関心から鈴木志郎康の詩論にいたるまでの流れをふりかえっておきます。
429. この時代の思想的変化の表層でまず目につくのは、新旧左翼の思想と運動の退潮です(4の6:271-276)。資本主義社会は革命を通じて必然的に共産主義社会へといたる、という考え方が、およそもっともらしく聞こえなくなった。革命なんかしなくても、大衆の生活はそれなりに豊かになってしまったからです(4の7:365)。
430. 左翼の思想と運動は、直接的には社会改革へと人々を動かすためのものでした。しかし、日本社会における文明的な意義を考えると、マルクス主義思想は、たんなる社会改革にとどまらず、同じ社会に生きている見知らぬすべての人々を思って行動するという考え方を、日本の知識的大衆に知らしめる、という意義があった(4の8:382)。
431. いいかえれば、左翼思想は、日本語人に、身内の利害を越える普遍主義的なものの見方を教えたといえます。隣人への思いやりや恩人への恩返しといった伝統社会における見知った間柄の人間関係ではなく、見知らぬすべての人を対象として考慮する視点がそこに示されていた。近代社会は隣人ならぬ数多くの見知らぬ人々とともに作りあげる体制です。左翼の思想は、伝統社会から近代社会へと日本の大衆を作りかえていく思想的な近代化運動の一翼をになったといえるでしょう。
432. 日本の思想的な近代化運動の中心は、近代天皇制の確立と学校教育の普及だった。これに対し、左翼の思想と運動は、天皇中心のいわゆる「一大家族國家」(文部省『國體の本義』1937、p.9)とは異なる体制の可能性を与えるものでした。この二つの間には、社会思想として見ると、家族や血縁関係のような見知った範囲の延長上に社会を考えるのか、見知った範囲を越える普遍的原理(例、歴史的必然性)の下で社会を考えるのか、という本質的な違いがあったと思います。
433. その左翼思想が70年代から80年代に人々を惹きつける力を失った理由は、誤解を恐れず単純化すれば、全体のために奉仕することを優先し、個人の欲望を否定したからでした。革命を志す者にとっては、資本主義社会に適応して暮らすことは恥ずべきことだった。安逸への欲望を否定し、着た切りスズメで、玄米と味噌と野菜かなんかを食べて人民のために奉仕する。そういう生き方が最も価値があるとみなされた。その結果、左翼思想は、資本主義社会の市民に対して、みずからの欲望をみずから否定すべしという倫理的倒錯を押しつけるものとなってしまった。この倒錯を吉本隆明は〈倫理的な痩せ細り方の嘘くらべ〉と呼びました(4の7:357-366)。誰しもきれいな服を着たいし美味しいものを食べたい。物質的な欲望を否定するのは、自分に嘘をつくことです。
434. 切実な欲望を自己否定して人々のために生きることは、かえって倫理的な倒錯と嘘を生みだしてしまう。かといって、個人の愛と自由によって近代社会を築く――個人の欲望を肯定し、善への愛、善を選ぶ自由へと育てる――という西洋キリスト教圏の考え方は、キリスト教の宗教生活という基盤を日本では欠いている。では、隣人ならぬすべての人々とともに幸福に生きるには、いったいどうしたらいいのか。これが1970年代から80年代にかけて、日本語人がそれと気づかずに直面していた課題だったと思われます。
435. この課題に対して、鈴木志郎康は、人間存在と言葉と社会の根本的なあり方への洞察のかたちで答えました。
「私らは肉体によってのみ存在しているが、言葉によって飛躍するものであるのだ。そして、その飛躍というのは、私自身の存在が個別的なところから全体的なところへまたがって行くということなのである。」(『極私的現代詩入門』p.82)(4の8:388)
見知らぬすべての人々とともに幸福に生きるとは、肉体として生きている自分自身が、「言葉によって飛躍」し、「個別的なところから全体的なところへまたがって行く」ように生きることだ、と答えている。そう考えられます。
436. もちろんこれは根本原理に過ぎない。すべての人々とともに〝幸福に〟生きるためには、現実のさまざまな条件を考慮に入れてあれこれ調整しなくてはならないのは明らかです。しかし、生きている身体としての自分が世界全体に到達する手がかり(の一つ)は言葉なのだ、というのは確かなことです。その意味で、鈴木志郎康は出発すべきところから出発しています。
3.「雑踏」をめぐって
「雑踏」は何を指すか
437. 冒頭で述べた「雑踏」をめぐる誤読を訂正しておきます。問題の「雑踏」という語句は、1975年に刊行された『極私的現代詩入門』の第九エッセイ「言葉を書くということ」において、本人の1969年の文章からの引用の中で用いられています。つまり、鈴木志郎康の自著の引用の中の言葉です。前回引用した二カ所を下に再掲します。
A 「(前略)私としては、自らがこの個人主義的にしか生きられないということについて、一種の安堵を感じながら、同時に残念であり燃えるような恥かしさを感じてしまう。
いわば、その恥かしさに突き上げられて、私は自己暴露的に私はその(雑踏の中で得た)想念を言葉にするのであるが、それが私の詩なり散文になってくるのだ。」(『極私的現代詩入門』p.84)(4の8:392)
B 「つまり、私は個人主義の論理の中で、徹底した地点まで行ってしまいたいという気持で一杯になる。私は私自身の文化を持つことになる、ということは、正に狂気以外のなにものでもない。もしも、私があの雑踏の中の束の間ではあるが解き放された地点を寄りどころにした現在の私にとってはこの世に実在しない組織か又は共同体といったものを心の底で求める気持を持っていなければ、私は恐らく狂気に向ってまっしぐらに走って行くことだろう。だが、私は自分が現在そうである個人主義的な生き方、そしてそれに伴なう表現上の主観主義を克服したいと思っている。」(『極私的現代詩入門』p.85)(4の8:395)
上のAとBは、両方とも『現代詩手帖』1969年7月号に「巻頭時評」として掲載されたエッセイ、「極私的な極小資産者の精算は人人が詩と雑踏を潜る」からの引用です。
438. エッセイ表題の「人人」は「にんにん」とルビが振ってある。辞書を参照すると「各自銘々、それぞれ」といった意味があがっていますが、この表題は「精算」も「潜る」も字義どおりでは意味が通じにくい。少し工夫する必要があります。まずは字義に寄せて、〝ごく小さな資産を持った極めて私的な人物(の人生)の精密な計量は、各人が詩の創作と現実の雑踏に深く入り込む(ことによって定まる)〟という意味に解したい。もう少し言いかえるなら、ことばを創造的に用い、かつ、街の雑踏に深く入り込むことによって、小市民の人生の詳細がはっきり浮かび上がってくる、ということ。後に見ますが、たしかに、このエッセイはそんな話をしています。
439. 書誌情報を補っておくと、このエッセイは、1970年に三一書房から刊行された鈴木志郎康の初の評論集『純粋桃色大衆 ――空想への迷走』の 24ページから34ページに収録されました。全体は12000字前後、400字詰め原稿用紙で30枚くらい。雑誌の論考としてはやや長めかと思います。
440. 引用Aは、上にある通り途中で段落が改められている。エッセイ全体の末尾から二つ目の段落と末尾の段落にまたがった箇所です。引用Bは、末尾の段落の中ほどの箇所です。いずれも、全体の結論にあたる部分に含まれています。
441. 「雑踏」はAにもBにも出て来ます。このエッセイ全体で、「雑踏」が出てくるのは、全体の中盤です。それを読めば、「雑踏」がどういう人混みを指しているのか判明します。すなわち、
「退勤後同僚と一緒に時を過すこともなく、私は大抵の場合ひとりで街に出て行く、私は人混みの中を歩いて行く。私は国電に乗ったり、地下鉄に乗ったりして雑踏をくぐり抜け、さらに雑踏を一時に停止させたような、駅の中とか駅附近の喫茶店にたどり着くのだ。」(「極私的な極小資産者」pp.28-29*)
ここにあるとおり、雑踏は、前回私が推測したのとはちがって、60年代末期のデモや集会の雑踏ではなく、退勤時に著者がたどる街の雑踏のことでした。しかし、いったい著者は何を求めて雑踏を歩き回るのか。
注*: エッセイの表題を「極私的な極小資産者」と略記し、引用箇所のページ数は『純粋桃色大衆 ――空想への迷走』収録のページ数によります。なお、『現代詩手帖』掲載時と単行本収録時では、漢字表記や句読点、段落の区切り方などにわずかな違いがありますが、単行本収録の本文に合わせることにします。
442. 著者は、自分は雑踏の中で詩や散文の元になる想念を追い求めていると述べています。なぜ雑踏の中でそうするのか。無数の人々が沈黙のまま行きかう雑踏こそが、著者を日常の気遣いから解放してくれるからです。
「私は雑踏の中で詩や散文となるべき想念を追い求める。国電や地下鉄の中の人混みの中で、盛り場を歩きながら、殆んど雑踏のような駅ビル内の喫茶店で想念を得て、それを追い求める。…(中略)…私や周囲の人は、まるで人間同士ではないかのようにじっと黙っている。…(中略)…私は大抵の場合、頭の中で言葉として連続する想念を追いながら、この沢山の人の沈黙を意識している。すべての人がひとりひとりで電車に乗っている。私も又ひとりで金を払って乗車券を買い、電車に乗る平等な権利を得て乗っているのだ。私は気楽な気分になる。私はようやく自分の身体を取り戻したような気持になる。」(「極私的な極小資産者」pp.30-31)
引用文の末尾の「自分の身体を取り戻したような気持」という語句は、一読のかぎりではちょっとした比喩です。この比喩は、雑踏に立ち混じる前には、〝身体を失ったような気持ち〟だったことを示唆しています。
443. 思い出しておくと、このエッセイの発表の数年後の1975年に、著者の鈴木志郎康は、私たちは身体(肉体)において個として存在しつつ言葉によって全体に到達する、という考え方を表明することになる(435)。このエッセイの時点の1969年では、「自らがこの個人主義的にしか生きられないということ」を「恥ずかしさ」とともに感じながら、「自己暴露的に」想念を言葉にし、「個人主義的な生き方…(中略)…を克服したい」と述べています(437A、B)。
444. 著者は、いずれの時点でも、個として存在することから言葉による表現に向かい、それによって、個を超えたところに行き着きたい、と考えているわけです。そして、雑踏の中で「身体を取り戻したような気持」をいだく。著者の日常生活の中で、雑踏は個としての存在を取り戻す場所だったわけです。この点については、すぐにまた論じますが、その前に、前回の内容をふり返って、ほかに訂正すべき点を明記しておきます。
個人主義の〝恥かしさ〟
445. 鈴木志郎康にとって、自分が個人主義的にしか生きられないことは「恥かしい」ことなのでした。前回、「雑踏」をデモや集会の雑踏と解した際、この「恥かしさ」は、「1969年にあっては、反戦反米反帝の大義に身を捧げることなく「個人主義的にしか生きられない」のは、恥かしいことだった」(4の8:393)と読解しました。
446. さらに、「この恥かしさの感覚は、時代は前後しますが、1980年代初頭に黒田喜夫が物書きたちをなじって「市民社会に自足する責を逃れようとする卑しさ」(4の7:340)と言ったのと対応しています。欠陥のある社会で自足した個人であることが恥かしいのです」(4の8:394)と述べて、70年代から80年代にかけての左翼思想の一般的傾向に結びつけました。
447. 「雑踏」がデモや集会の雑踏ではなく、著者が退勤時に立ち混じる街の雑踏のことだったのを受けて、上の読解も訂正する必要が生じます。しかし、この点に関する訂正は、ちょっとややこしいことになります。
448. 第一に、著者において、左翼の思想および運動とかかわったのは、1969年から70年の第二次安保闘争のときではなく、1959年から60年の第一次安保闘争のときだった。したがって、第二に、「恥かしさ」が左翼的な思想や運動からの離反にある程度まで結びついているという点は、訂正の必要がない。
449. わかりやすくいうと、鈴木志郎康は、1969年に左翼の思想と運動から距離をとっている自分を恥じたのではなかった。すでに1960年に距離をとっていた自分を、1969年にあらためて恥じているのです。
450. 1959年から60年にかけて、どういう体験があったのか、本人の文章から引用します。以下は、1976年に刊行された「未発表初期詩篇」所収の「所属のない空間2 車道を横切る女」という詩作品に付された長い追記から。
「このノートに詩が書かれている二年間というのは、六〇年反安保闘争が激しくなっていたときである。私の記憶には、五九年の四五月ころからかなり頻繁にデモがあり、早稲田大学のフランス文学専攻にいた私はクラス委員にされて、一般学生をデモに引き出すのに苦労したことが残っている。又、夏休みには文学部全体のクラス委員会に何度も招集をかけられて、出掛けていっては、そこで議論されていることと、一般学生の無関心との差をどう埋めたらいゝのかわからないで、苛立っていた。その議論は日共派の学生とブント派の学生の平行した議論で、その意味するところを私はよく理解していなかったようだ。どちらかといえば、私はブント派の学生に好意的であったが、彼らから見ると、政治を理解しない文学青年として幾分嘲笑的な扱いを受けていた。それでも、五九年の十一月の末までは比較的よくデモに行った。雨でずぶ濡れになったり、坐り込みをして泥だらけになったりした。それは気分がよかった。虎の門から新橋、また八重洲口までジグザグをやったり、走ったりした。…(中略)…
一九五九年の秋に労働者と学生との連帯した行動が行われることになっていたが、労働者のストは打たれなかったと思う。何か、そのことが私をひどくがっかりさせたと記憶している。そして、学生の行動はますます激しくなって、私は自分がついて行かれないと感じて、その頃からデモに行かなくなった。私は父や母と一緒に暮らし、日々の生活に追われている彼らと学生の行動や自分の意識のあり方との間にひどい差があるのを感じるようになった。…(中略)…あの国会乱入も、家でテレビで見ていただけであった。一人の女子学生の死は、いたましい思いでニュースを聞いたり見たりした。私は自分がそこに一緒に行っていなかったことは、自分をずるい人間だというふうにも思った。私は、自分が政治的な活動に少しは関心があるが、素直にそれに参加して夢中になれない人間であることを強く自覚しなければならなかった。…(後略)…」*
注*: 鈴木志郎康『攻勢の姿勢 1958-1971』書肆山田2009、pp.605-606より。『攻勢の姿勢 1958-1971』は、1958年から1971年までの未発表を含む鈴木志郎康の詩作品および詩論の集成。
451. ここに記されているのと似たことは、1960年ころに学生だった多くの人々が体験したと思います。一方に熱心な活動家がおり、他方に無関心な一般の学生がいる。その中間に、活動家ほど深入りはしないが、政治や社会にまったく無関心ではない自分がいる。デモや集会に行ってある程度の昂揚感を味わったりするけれど、ある時点で違和感を感じて活動から距離をとる。すると、自分の政治的・社会的関心に本気で向き合っていないような気がして、「自分をずるい人間だというふうにも思った」りしてしまう。そして、自分は政治的な活動に没頭できない人間であると気づかざるをえなくなる。これと同じような光景は、私の経験した1970年前後の高校や大学でも広く見られました。
452. 鈴木志郎康が60年安保闘争の体験から得たのは、自分がどちらかといえばブント派(共産主義者同盟、反日共系組織)に好意的であるとしても、左翼の政治活動に本気でかかわることはできない人間だ、という自覚でした。1969年には、鈴木志郎康はすでに30代も半ばに達しており、学生時代より複雑で正確な自己理解を持っていました。本人が、2009年の時点で、60年代の終わりから70年代の初頭にかけての自分をふり返った文章を見てみましょう。
「わたしは、学生時代に六〇年安保を体験して、NHKに映画カメラマンとして就職して、報道機関の組織の中の人間になり、その高度成長する経済の現場や環境破壊の現場に立ち会うことがしばしばありました。そこでわたしは、複雑な心境にならざるを得ませんでした。詩を書くところでは独立した主体であろうと、身体という観念に重きを置いた独自な言葉を持って、虚構的に下層に向って行こうと思ったのです。当時のわたしは、一つには、その意識の運動として詩を書いていたともいえるのでしょうね。」(「攻勢の姿勢 1958-1971あとがき」『攻勢の姿勢 1958-1971』p.597)
453. 六〇年安保を経験し、さらに報道機関のカメラマンとして、1960年代の高度成長や環境破壊の現場に立ち合い、「複雑な心境」を懐く。具体的に語られてはいませんが、自分の政治的・社会的な関心に訴えかける光景を見たのだと思われます。しかし、その現実に対して直接的に行動を起こすのではなく、詩を書く「独立した主体」として「身体という観念に重きを置いた独自な言葉」を用いて、「虚構的に下層に向って行〔く〕」ことを選んだ。「下層」というのは、この場合、社会の下層では意味をなさないので、〝身体を経由して到達される意識の下層〟を指すと考えられます。無意識や潜在意識のことです*。生活の中で抑圧されている欲望や現実認識に到達したい。「その意識の運動として詩を書いていた」というのが2009年、74歳に達した鈴木志郎康の自己理解というわけです。
注*:「下層」は無意識や潜在意識を指すとして、「虚構的に」をどう解するかも問題です。が、こちらは鈴木志郎康の詩と詩論をもう少し論じてから考えることにします。
454. 1969年のエッセイ「極私的な極小資産者の精算は人人が詩と雑踏を潜る」の読解にもどりましょう。エッセイ執筆の1969年の時点では、安保闘争から離れた1960年当時よりも社会に対する成熟した態度を持っていた。そんななかで、60年代末にふたたび起こった反安保の闘争に接して、鈴木志郎康は詩を書く自分自身に対してどのような〝極私的な精算〟を行なったのか。そのあたりを見ていきます。
4.なぜ「雑踏」なのか
疎外された状況
455. このエッセイの冒頭は、次の文章で始まっています。
「私は月々支払われる給料で生活している。その生活の大部分の時間は支払われる給料を得るための仕事によって占められている。」(「極私的な極小資産者」p.24)
詩論の始まりに定型はないとはいえ、やや意外な始まり方といえます。創作の話ではなく、生計の話から始まっている。著者は、自分の生計がどのように営まれているかということと、自分の詩作がどのように成立しているのかということの関係に関心がある。暮らしと想像力のつながり方が気になっているのです。
456. 先述のように、鈴木志郎康は、1969年の時点でNHKの映像カメラマンの職に就いています。そして、「私はその仕事が比較的好きだから、比較的熱心に行う」(「極私的な極小資産者」p.24)といっています。ところが、「私の仕事の結果は私のものではない」(同上) この、仕事は好きで熱心に行なうが仕事の結果は私のものでないという状態は、いわゆる〝疎外された〟状態です。
457. 「疎外された」とは、英語で言うと「alienated」です。「alien」は「エイリアン」で、「見知らぬもの」とか「縁遠いもの」をいう。鈴木志郎康の場合、自分が仕事で撮影した映像は、自分のものではなく勤務先の組織のものとなる。放送される番組映像の一部となるわけです。自分の頭を使い、身体を使って何かを生みだすと、かえってそれが自分の手の届かないものになってしまう。こういうあり方は、疎外された労働、あるいは自己疎外などと呼ばれ、60年代末期には現代人の置かれた状況をあらわす概念として、初期マルクスの『経済学・哲学手稿』とからめてよく取り上げられました。
458. 著者は、疎外された状況は正されるべきだといった大ざっぱな話をしているわけではありません。疎外された状況が自分の生き方にどう影響してくるのかを考え、自分と所属組織の関係を問い直している。たとえば、組織の命じるとおりに仕事をして、その結果、「一人の人間が死んだとしても、私には社会的に責任はないことになる」(「極私的な極小資産者」p.24) なぜなら、社会的責任は、公式には仕事を命じた組織の代表者が負うのであって、末端の個人ではないからです。
459. 著者によれば、しかし、末端の存在でも社会的責任を問われる状況はある。活動の結果が悪だった場合、悪を命じる組織に属しているということについて、末端に位置する者も責められることがあるからです。「何も悪いことをするところに勤めて給料を貰わなくてもいいではないか、といわれる」(「極私的な極小資産者」p.24)というわけです。
460. ここで持ち出されるのが、多くの場合、自分だって生活していかなくてはならないのだ、という弁明です。この弁明は、もっぱら生活の維持をもくろみ、所属組織の悪には目をつぶるものとなっている。つまり、「生活を維持するために、私に行為を命じる組織そのものの存在理由〔を〕是認」(「極私的な極小資産者」p.25)してしまう結果になる。この場合、結局は、直属の組織を含む現時点の社会全体を是認する方向に流されて行くでしょう。
461. 現在の生活を維持するために、所属組織を含む社会全体が犯しているかもしれない悪を不問にして暮らしていくのは、大きな間違いなのではないか。鈴木志郎康が、詩論を自分の生計の問題から書き始めたのは、この問いにぶつかっているからでした。この問いは「現在各地で起っている大学に於ける闘争に触れて、給料生活者の私の内部に発生した不安」(「極私的な極小資産者」p.25)から来ていると分析しています。かれは60年代末の大学闘争が突き付けた問いに、自分なりに答えようとしているのです。
462. 番組の一部となる映像をカメラマンとして撮影する。組織が送りだす番組の善悪について、自分は確信がもてない。だが、組織的な悪の可能性は不問にして、「私は撮影するということが好きだから続けて行く。」(「極私的な極小資産者」p.26)単純にいえば、こういう状態で著者は仕事にたずさわっている。この状態に対する本人の判定は次のようなものです。
「私はここでおかしなことになっているのだ。私は、自分の生活の基盤になっている客観的な事象をある支点で一挙に主観の中のことにしてしまっているのだ。」(「極私的な極小資産者」p.26)
「客観的な事象」と言われているのは、番組の善し悪しのことでしょう。善い番組ならば放送するのはよいことであり、悪い番組ならしない方がよい。これは客観的または社会的な水準で決まることです。こういう客観的・社会的な事象を「撮影することが好き」という「主観の中のこと」を支えにして続けて行くのが「おかしなこと」である、と言っているわけです。
463. 仕事をし、生活の糧を稼ぎ出し、生活上の欲求を満たし、詩作と思考を通じて無意識の欲望を探り当て、表現する。「本来的にこれらのことを通じて、私は他人とつながって行く」(「極私的な極小資産者」p.27)はずなのだが、「私はそこでその他人とつながって行くという点に重点を置くことができない」(同上)でいる。逆に、生活のために稼ぐことへと追い立てられ、「助け合いの心を失ってしまう」(同上)結果になる。
464. 本当は、カメラマンとしての仕事は「創造的なものとなりうる」(同上)ものなのに、「機械的な繰り返しの行為へと退廃してしまう」(同上)
「その退廃は私の全生活を覆ってくる。自分が損をしているのではないか、という思惑が絶えずつきまとい、自分の妻に向ってもこの思惑を働かせる。…(中略)…私は自分の妻を家政婦と売春婦の位置へ突き落してしまう。彼女はそのように侮蔑されることについて黙っているわけはない。そうして、私は自分がどれ程の退廃の中にいるのかを電撃的に知るのであるが、私は自分の落下をどのようにして食い止めたらよいのかわからない。」(「極私的な極小資産者」p.27)
465. 所属組織の客観的な善悪について判断停止し、とりあえず仕事は好きだから生活のためにそれを続ける。そんな生き方をしているうちに、仕事を通じて人々とつながることができなくなる。好きだからやっているだけの繰り返しに陥ってしまう。家庭生活でも自己中心的な損得勘定しか考えられないほど自分は退廃している。つまり、疎外された状況で、主観の中のことにかまけているうちに、他人とつながることができず、孤立し、自己中心的になってしまった。鈴木志郎康は、こんな自覚を持つにいたっています。
雑踏の中で
466. 会社という組織にあっても、家庭という共同体にあっても、他人とつながって行くことができず、自己中心的な退廃に陥ってしまう。ところが、先に見たとおり、勤め先から自宅に帰る雑踏の中で、著者は気楽な気分になり、「私はようやく自分の身体を取り戻したような気持になる」(「極私的な極小資産者」p.31) これはいったいどういうことか。
467. 雑踏というものは、「組織でも共同体でもない人の集り」(「極私的な極小資産者」p.32)に過ぎません。しかし、だからこそ、「一切の組織と共同体から訣別しようとするものにとって許された唯一の人間的空間」(同上)であることができる。人々は、「まるで人間同士ではないかのようにじっと黙っている。」(同上)
468. とはいえ、この沈黙の中でも、人々は、依然として、組織や共同体の意向に支配された思念を心の中にいだいているにちがいないのです。だから著者は慨嘆せずにいられない。「意味体系の中で私たちは何という奴隷的な状態にいることだろう。」(「極私的な極小資産者」p.32)
469. たしかにそうなのですが、しかし、「普通の人は雑踏の中で何事かをしようなどと考えもせず、何事かをするのは組織の中か共同体の中かですることに決っていて、完全に個人のものと出来るところでは時間をつぶす以外にはない。」(「極私的な極小資産者」p.33) 雑踏は、まさに人々が雑然と交錯し通過する時空であって、組織も共同体もこれを支配できません。
470. 雑踏の中に生れているのは、思いがけず「完全に個人のものとなっている時間」(同上)なのです。人々は潜在的には組織や共同体の意味体系に支配されているのですが、お互いの沈黙のゆえに、その通常の意味体系は背後に退かざるをえない。その空白に、だれもが無為に時間をつぶすしかない場が出現する。この無為の場ではじめて、組織と共同体の束縛から脱け出して、著者は「自分の身体を取り戻したような気持」(上掲書p.31)になる。個人として蘇生するのです。
言葉の切れ端
471. その雑踏の中で著者が何をしているのかというと、先にも見たように、「詩や散文となるべき想念を追い求め」(442)ているのでした。いったい、想念を追い求めるとは、どんな体験なのか。
472. 雑踏の中、人々は沈黙しています。著者は「頭の中で言葉として連続する想念」(「極私的な極小資産者」p.31)を追っている。「私はまるまる自分の想念の中で息づいているのだ」(同上) 街を歩いているとき、電車に乗っているとき、いろいろな想いがとりとめなく浮かんでは消えて行く体験は、誰にでもあると思います。
473. ところが、ふいに「その雑踏の中でたまたま話されている」(「極私的な極小資産者」p.31)言葉を耳にする。すると、著者の想念は、「私とは係わりなく、単に視野の中にのみある人間というものから、ものすごい勢いで言葉へ突進する」(同上) 何が起ったのか。以下の引用は長いのですが、半ば過ぎに出てくる「私は意味ではなく人間が話す言葉というものを見てしまう」という一節に、言葉を、通常の意味を離れて、それ自身で独立して存在する対象として受け取ってしまう言葉と詩人の独特の関係が、よく表されていると思います。
「私はその話の内容は全然理解できないにも拘らず、ひと言、ふた言の言葉がその人の全生活を表しているかのように感じるのである。私はその言葉の片々の力を私の想念の言葉に持たせたいと思ってしまう。というのは、その片々の言葉にこそ驚くべき伝達力があって、その伝達された意味の中にようやく私は自らの人間的感情を取り戻しているような状態だからである。私はそこで話の中に立ち入ってないから、話し手たちがその言葉に托している本当の意味は何一つとして理解していない。話し手たちは私とは反対にその言葉が荷っている全く具体的な意味だけしか受け取っていない。そして、私は意味ではなく人間が話す言葉というものを見てしまうのだ。それはつまり言葉こそ人間なのだ。私はそこで意味の外に立って、始めて言葉というものの存在を理解しているのだが、この言葉の存在を認めるということは私に言葉の意味が開き得る別の地平線を予測させるに十分なことなのだ。従って、私が雑踏の中で追う想念はその言葉が開き得る別の地平線へと向って行くことになる。」(「極私的な極小資産者」p.31)
474. まず、雑踏の中でふと耳にした言葉は、前後の文脈がわからない。だから、話の内容としては伝わってこない。しかし、その言葉の切れ端は、その人の「全生活を表しているかのように」そこにある。
475. 「その片々の言葉にこそ驚くべき伝達力」がある。伝達しているのは、そこに意味する存在としての人間がいる、という事実です。すなわち、そういう切れ端の言葉に、「私は意味ではなく人間が話す言葉というものを見てしまう。」
476. 前後の文脈を離れ、通常の意味作用を失った言葉を聞くとき、「私はそこで意味の外に立って、始めて言葉というものの存在を理解」する。「言葉こそ人間なのだ」。言いかえれば、何を意味しているのかわからないけれど、とにかく何かを意味しようとする存在が人間なのだ、ということが浮かび上がってくる。
477. こうして雑踏の中で聞き取られ、通常の意味を失った言葉は、「言葉の意味が開き得る別の地平線を予測させる」ものとなる。通常の意味体系を離れ、意味しようとする姿勢だけが浮かび上がるような新しい言葉のあり方が見えてくる。「私が雑踏の中で追う想念はその言葉が開き得る別の地平線へと向って行く。」
478. 分かりやすくまとめると、以下のようになります。雑踏は、組織や共同体の強固な意味体系から解放された時空であり、切れ端となった言葉が〝もの〟として自由に飛びかう別の地平線をかいま見させてくれる。著者は、自分の表現を別の地平線へと向かわせたいがために、雑踏の中で、言葉の切れ端を手がかりにして、自分の想念の自由な展開を追い求める。
5.むすび
479. ずいぶん長くなってしまったので、今回はここまでにします。鈴木志郎康は、まだ1969年の時点にいて、自分の疎外された状況からどうやって脱け出すか、雑踏を歩いています。通常の意味作用を離れた言葉を使って、自分の表現を別の地平線へと向かって打ち出そうとしている。60年代の鈴木志郎康は、「プアプア詩」と呼ばれる独自の作品群によって、共有された通常の意味体系を揺さぶることに成功しました。次回は、そういった詩作品を取り上げて、かれが何に成功したのか確認したいと思っています。
480. 私たちは、しかし、前回、この時期のあとで、1975年の鈴木志郎康が、詩を書くのがつらくなってしまうという一種の閉塞状況にいたったことを見ました。その閉塞からの解放は、お産のあとの奥さんを産院に見舞って、夜の亀戸の街を自転車で走って帰ってくるとき、突然やってくる。その夜、鈴木志郎康が体感したのは、生きて、言葉を発し、動いている主体としての自分だった(4の8:419)。
481. 通常の意味体系を揺さぶることに成功した詩人は、そののち詩を書くことがつらくなってしまうけれど、ある夜の体験を通じて、生きて、言葉を発し、動いている主体としての、あるがままの自分に立ち帰って行く。これはどういうことなのか。特に、「1970年代から80年代にかけて、日本の知識的大衆のなかである種の思想的な変化が起きていたのではないか」(428)という問題関心から見た場合、鈴木志郎康の思念の移り行きが示しているのはどういうことか。
482. 私は、こう考えています。詩人は、マルクス主義のような普遍的原理による思想と運動に素直に没頭できなかった。むしろ、言葉を手がかりにして、自分自身の表現を通じて個から全体へと向おうとした。そして、通常の意味体系を揺さぶって、別の地平線を打ち出すことに成功する。ところが、意味体系を揺さぶり続けながら、いったい自分が何を得ようとしているのかわからなくなる。詩を書くのがつらくなる。そこで、意味体系を揺さぶるのではなく、むしろ揺さぶろうとする自分、あるいは言葉を発しようとする自分、という根っこの方に向かう。そしてあるとき、あるがままの自分に達したという解放を体験する。
483. この解放の体験は真実のものだと思います。だが、言っておかないといけないことがある。それは、あるがままの自分に達することと、普遍的原理ないし新たな意味体系に達することは、同じことではないだろう、ということです。あるがままの自分に到達しても、「隣人ならぬすべての人々とともに幸福に生きるには、いったいどうしたらいいのか」(434)という問いに答えられるわけではないでしょう。この問いは権力への問い(他者を動かすこと)を含んでおり、あるがままの自分は権力への問いを含まないように思われるからです。だから、鈴木志郎康の辿った道筋が示唆しているのは、隣人ならぬすべての人々とともに生きるための原理を、現代の日本語人はまだ見つけていない、あるいは、個から全体へといたるための道はまだ見いだされていない、ということなのです。
484. 次回は、鈴木志郎康の詩作品を取り上げながら、いま最後に駆け足で述べたことをもう少し考えたいと思います。公開は、さしあたり、4月25日の土曜日を予定しておきます。


続き待ってます!