個人と国家をつなぐ暗黙の原理について
(西洋近代と日本語人 第4期 その1)
1.はじめに
1. 8月と9月はブログを休みました。そのあいだ、再開したらどんな話題を取り上げたらよいか、あれこれ考えていました。ふりかえると「西洋近代と日本語人」という題のもとで4年余り書きついできて、いずれ論ずるつもりでいながらまだあつかっていない主題がいくつかあります。そのあたりの事情から、話を再開してみたいと思います。末尾で、どんな話題から第4期をはじめるか、方向が見つかります。
2.まだ論じていない主題
17世紀イングランドの哲学と自然学
2. 第2期の最終回、2の39の冒頭に、「デカルトの話は前回で終えて、今回からイングランドの哲学者や自然学者の話をします」(2の39:1587)と書きました。第3期にはこういう話をしますよという予告でした。あつかう予定の人物を紹介し、考察の課題も明言しています。
3. 人物としては、ロバート・ボイル(Robert Boyle, 1627-1691)やジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)といった名前を挙げています。考察課題は、「端的にいえば、〝経験を通じて世界を知るとはどういうことか〟」(3の39:1599)である、と宣言している。もうすこしふみこんで、これは「実験や観察を通じて知識を得るという新しい試みが、17世紀のイングランドで、どのようにして学問的活動として認められ、知的活動の正統の一つとして認められるようになったのか、という問題です」(同:1605)と説明している。
4. ここまではっきり予告しましたが、遺憾ながら、17世紀のイングランドの哲学と実験的自然学という主題はまだあつかっていません。その理由は、第3期の議論の流れのせいとしかいいようがありません。しかし、実験科学は西洋近代をつくり出した重要な知的活動です。この活動を西洋思想史一般の文脈で論ずることは、西洋近代の文明や社会がどういう性格をもつものなのかを教えてくれるはずです。第4期には、あらためてこの主題をあつかいたいと思っています。が、議論の流れにどう織り込むか、ちょっと想を練らないといけない。うまく織り込めなければ、また後日となることもありえます。
近代国家の暴力性と日本語人
5. もうひとつ、論ずる予定でいながら、まだあつかうことができていない主題があります。こちらは第1期のなかばに言及したものです。1の9の冒頭で、その後の議論にかかわる論点を以下のように列挙しました。なお下の引用中で「(まだ論じてない)」とあるのは、これらを列挙した1の9の時点で、まだ論じていないという意味です。
「戦争〔は〕、敵の打倒を命ずる神々の語りのなかで、気の進まなさとともに実行される(まだ論じてない)。現代の日本語人は、天皇制イデオロギーが瓦解して後、敵の打倒を命ずる語りをもつことができないでいる(これもまだ論じてない)。対外的と対内的の暴力は、統治権力の核心にある(1の2:3.1~3.5で論じた)。現代の日本語人は、対外的な暴力を肯定する言説をもっていない(まだ論じてない)。私たちは、西洋近代思想が権力の肯定のために生み出した言説を知らず、理解せず、その言説を生きていない(まだ論じてない)。結局、日本語人は西洋文明の生み出した〝近代〟という時代をうまく生きることができないでいる。」(1の9:3.200)
6. 第1期を通じた主題は、戦争をふくむ暴力行使でした。まだ論じていないのに、こうしてあえて言及している論点は、すべて暴力の問題にかかわっています。いくつもありますが、すでにこれ以降に論じたものも混じっています。どの論点をどう論じてきたのか、そして、まだ論じていないものについては、それがどのような問題を内包していて、いつ論ずることができそうか、順に考えていきます。
3.国家と国民と暴力
気の進まない共同行為
7. 列挙された論点の最初のものは、戦争は一般に宗教的・イデオロギー的な語りを媒介にして、「気の進まなさをとともに実行される」というものです。この論点は一応論じました。戦争に参加するときの〝気の進まない感じ〟は、動員された兵士たちに容易に見いだされるでしょう。各種の記録を調べれば、裏づけになる事例を探し出すことはできるはずです。しかし、この〝気の進まない感じ〟は、個別の事例からではなく、戦争をふくむ共同行為一般の特性から論ずることもできます。この論点はそういう仕方であつかいました。
8. 第3期の最終回、3の19で、「人が共同行為にたずさわりつつ共同意図から離反する私的な意図をもちうる」(3の19:974)ということの心理的・論理的な構造を、一般的に論じました。人々が、心の底からは賛同できない共同行為(例えば、戦争)に、あたかも賛同しているかのように進んで参加してしまうのは、演技したり何かのふりをしたりするヒト特有の能力の帰結と考えられます(同:1014-1018)。人々が、〝気が進まない〟のに〝みずから進んで〟戦争に参加するのは、この、周囲の期待にあわせて演技してしまう能力のせいです。
9. この能力は、幼児が言語を習得したり道徳を身につけたりするのを可能にしている能力でもあります。まわりの人たちが幼児に対して伝達しようと意図していることを読み取り、期待される振る舞いを察知して、察知した内容に合わせて振る舞う能力。この能力がなければ場面に合わせた適切なことば遣いや立ち居振る舞いを身につけることはできません。これは幼児が一人前のおとなになるために不可欠の能力であり、ヒトの社会性の基盤をなしています。私たちの生活からこの能力に由来する思考と行動を抹消してしまうことは、もとより生物学的に不可能であるだけでなく、日常生活において不適切でもあります。
10. 人々が積極的には望んでいないのに戦争が遂行されてしまうという問題は、ヒトの社会性一般という観点から、こうして一応は論じました。ただし、宗教的ないしイデオロギー的な「神々の語り」が関与するという側面はまだ手つかずです。
11. 手みじかにのべると、「神々の語り」は、人々を戦争に向けて動かしていく象徴作用一般を念頭に置いています。たとえば、近代日本では、満開の桜のいっせいに散るさまが、国に命を捧げる兵士たちの象徴として用いられました。ヨーロッパでも、バラの花がさまざまな意味を帯びた象徴として政治的空間に登場したと言われています。
*注*: 大貫恵美子『人殺しの花 政治空間における象徴的コミュニケーションの不透明性』岩波書店、2020年刊。
12. こういった象徴作用は、合理性や利害計算を度外視して人々を動かすはたらきをそなえています。広告の映像にのせられて買うつもりがなかった商品を買ってしまうのは、その卑近な例です。映し出された〝おいしい生活〟のなかで、われ知らず演技してしまうのです。気の進まない戦争に〝いやいやすすんで〟参加してしまうのも、同じ心理機構によるものといえるでしょう。
13. うまく乗せられて、ほんとうは望んでなどいない戦争に〝いやいやすすんで〟参加させられるのは、できれば避けたい。誰でもそう思うでしょう。しかし、演技したり何かのふりをしたりする能力を根こそぎ捨ててしまうことはできない。では、一体どうすればいいのか。
14. 第4期は、この、ではどうすればいいのか、という問いに取り組もうと思います。しかし、取り組む前提として、先に考えておくべきことがたくさんありそうです。前提になることをいくつか見ておきます。
現代の日本語人と暴力肯定の論理
15. 上記の引用の「まだ論じていない」論点は、次の二つにまとめられます。
(1)「現代の日本語人は、天皇制イデオロギーが瓦解して後、…(中略)…対外的な暴力を肯定する言説をもっていない」
(2)「私たち〔現代日本語人〕は、西洋近代思想が権力の肯定のために生み出した言説を知らず、理解せず、その言説を生きていない」
(1)については、ある程度論じました。(2)については、まったく論ずることができていません。
16. (1)について論じたことを確認しておきます。もともと私は、上の引用末尾に記したとおり「日本語人は西洋文明の生み出した〝近代〟という時代をうまく生きることができない」と考えています。とくに、「日本社会は近代という体制の大事な部分で失敗しており、その大事な部分とは暴力にかかわる体制だ」(1の2:3.1)と考えている。
17. 近代国家は、対内的な警察力と対外的な軍事力という二系統の暴力装置をそなえてはじめて成立します(1の2:3.3-3.5)。私の見るところ、現代の日本語人は、警察力と自分の生活の結びつきはわかるけれど、軍事力と自分の関係はうまくのみこめない。憲法第九条と自衛隊の存在の矛盾は、人々がその関係をうまくのみこめないでいることのあらわれと解されます。反戦・非戦の立場からであれ、戦争肯定の立場からであれ、戦争という共同行為に平時において能動的にかかわるためには、個々人の生死と共同体の運命を結びつける理念ないし物語を私たちがもっていなくてはならない(1の3:3.42(ク))。しかし現代の日本には、そういう理念や物語は見当たりません。
18. この点は、2000年代のさまざまな藝術作品の解釈を通じて論じました。松本人志の映画『大日本人』と、村上隆の作品や企画展を題材として、国家的な暴力行使に対するどんな思念がそこに表出されているのか、立ち入って分析してみました(1の13~1の19)。この分析については、3の1の 9-33――とくに19-32――で要約して提示したので*、そちらを見ていただきたいと思いますが、作品たちに共通するのは、「私たち現代日本人は自信をもって〝正しい暴力〟を振るうことができない」(1の2:3.8、1の12:3.346)という訴えというか、そういう自己認識だった。
注*: 西洋近代と日本語人 第3期 その1|tetsujin
19. 共同的な暴力行使を肯定する論理が現代日本にはない、という問題をめぐっては、大江健三郎と村上春樹の小説を題材として今後さらに考えたいと思っています。そのときに天皇制イデオロギーとその瓦解についても言うべきことが出てくるかもしれない。ただし、これらを扱うのはすぐというわけにはいかない。そのまえに考えたい問題があるので、それについて以下に述べます。
20. (2)の論点、すなわち現代日本語人は西洋近代思想が権力の肯定のために生み出した言説を知らず、理解せず、その言説を生きていない、という論点については、まだほとんど論じていません。この論点の背後にあるのは、次のような問題意識です。
21. まず(1)のいうとおり、現代の日本語人は、天皇制イデオロギーが瓦解してから、対外的な暴力を肯定する言説をもっていないと想定しましょう。ここでさらに、(2)のいうように、統治権力を基礎づける西洋近代思想の原理にも縁がないとすると、どうなるか。
22. 日本国憲法にもとづく近代国家の外形はできている。しかし、国民ひとりひとりと国家の暴力装置を結びつける原理は、自前のものも、海外からとりいれたものも、いずれも存在しない。そういうことになる。
23. では、はたして本当にそうなっているのだろうか。そうなっているとしたら、どうしたらいいのだろうか。この二つの問いがすぐ浮かびます。
24. まず、本当にそうなっているのかという問いには、簡単に答えたい。私はそうなっていると思う。現代の日本語人は、対外的な暴力を肯定するための自前の原理はもっておらず、西洋の原理はよく知らない。それどころか、そもそも自前のにせよ西洋のにせよ、国家の暴力行使を肯定する首尾一貫した原理が必要だと考えていないふしがある。こう思う根拠は、憲法第九条と自衛隊の存在の矛盾が長年放置されていることです。
25. では、どうしたらいいのだろうか。今までどおり国民と国家的暴力をむすびつける原理なしでやっていくのは危なっかしい。戦争は皆の気が進まないまま始まって皆を巻き込むことがありうる。気づいたときには戦争が廊下の奥から茶の間のそばまで来ていたりしかねない。
26. 自分自身と自分たちの国家の関係なのだから、原則として自前の原理をつくるしかないのです。で、どうしたらいいのか。いちど破綻した天皇制イデオロギー(『國體の本義』(1937)のいう家族国家観)に再びたよるのは、似たような破綻をまた引きおこす可能性が高い。とはいえ、原理を無視してよく知らない西洋の制度をそのまま移植してもうまく行かない。それは現代日本の民主政体の惨状に示されています。
27. 自前の原理を考案するといっても、徒手空拳ではむずかしいでしょう。考える材料を仕入れるために、めんどうでも多少は勉強せざるをえません。どうしたらいいのかという問いに対しては、とりあえず勉強するしかなさそうだ、と答えるほかありません。
西洋思想における暴力肯定の論理
28. 何を勉強するか。暴力行使を含む統治権力の正当性をどのようにして確立するか、という問いは、西洋の政治哲学の根本問題です。勉強するなら、そのあたりからだろう。というわけで、無料版の ChatGPT に、国家的暴力を正当化する議論として西洋思想史上どのような議論があったのかという問いを、念のため英語で、尋ねてみました。すると、まあそんなところかな、という答えが返ってきました。紹介して考察の手がかりにします。
29. なおここで、西洋の政治哲学ではなく、東洋の政治哲学から学んではどうか、という意見がありうると思います。学んだ方がいいのは当然ですが、東洋哲学について語るのは私の任ではない。残念ながら、そちらへ向かうことはかないません。。
30. くわえて、いわずもがなの素人の感想なのですが、中国の政治哲学は、〝統治者の側が〟統治の正当性をどのようにして確立するか、という話になっている印象がある。孔子や孟子は統治者に向けて語りました。これに対し、私(たち)が必要としているのは、〝被統治者の側が〟統治の正当性をどのようにして確立するか、という話です。被統治者として正当な統治と正当でない統治を見分けて、正当性を確立するように振る舞うにはどうしたらよいか。この場合、参考になるのは、孔子、孟子ではなく*、ロック、ルソーなんじゃなかろうか。そう思う次第です。
注*: ただし、この文脈で考えたとき、墨子は例外的に興味深いというのは、畏友ガメ・オベールの示唆です。読まなくては。
31. さて、端折って整理すると、ChatGPT によれば、西洋思想史上では国家的暴力を肯定する議論として以下の六つの類型があるということでした。
(ⅰ) 自然の秩序と美徳からの議論: 暴力は、ポリス(都市国家)における秩序と美徳を維持するための自然かつ必要な手段として正当化される。プラトン、アリストテレス、キケロ。
(ⅱ) 神および神学的正義からの議論: 暴力は、神のもとで平和と正義に奉仕する限り、神の意志と道徳法によって正当化される。アウグスティヌス、トマス・アクィナス。
(ⅲ) 社会契約と主権国家論からの議論: 国家による暴力の独占は、社会契約によって正当化される。個人は集団的安全保障と引き換えに私的な暴力を放棄する。マキャヴェリ、ホッブズ、ロック、ルソー。
(ⅳ) 国家理性と現実主義からの議論: 国家は無政府状態の国際システムの中に存在し、その暴力は生存と政策のための手段である。マキャヴェリ、リシュリュー、クラウゼヴィッツ、モーゲンソー。
(ⅴ) 法と制度からの議論: 暴力は法の支配の範囲内、または集団的法秩序の一部としてのみ正当である。グロティウス、カント、国際法学者一般。
(ⅵ) 社会哲学と批判理論からの議論: 暴力は根底にある社会構造を反映している ―― 秩序にとって必要であるか、支配の道具であるかのどちらかである。マルクス、ウェーバー、フーコー、カール・シュミット。
32. 分類項目がこの六つになっている点について、私にはとくに異論はありません。この六つは相互に排反ではなく、相互に重なります。つまり、おおまかな分類です。また、思想家の名前については、リシュリューはデュマの『三銃士』で知ってるだけ、モーゲンソーは名前を聞いたことがあるだけなので、この二人のことはよくわかりませんが、ほかの思想家の名前は妥当なところに配分されている印象です。(というわけで、ChatGPT がなかなか役に立ってしまった。)
33. この6項目を見わたして考えると、現代の日本語人は、このうち(ⅳ)と(ⅵ)の系統の考え方にはなじんでいるようだ。私たちは、たとえば、こんなふうに考えることはできるのです。〈暴力は、国際関係の無政府状態を生きのびるためには不可欠であり(ⅳ)、たとえ一時的にすぎなくても、支配‐被支配の安定した秩序を生みだすために役に立つ(ⅵ)〉 国際関係は、ある側面では暴力団の勢力争いと同じなので、こういう考え方はのみこみやすい。というか、有り体にいって俗耳に入りやすい。
34. 他方、(ⅱ)(ⅲ)(ⅴ)は、現代日本語人の視野からすっぽり抜け落ちているか、たとえ視野に入っているとしても、以下のような反論によってしりぞけられてしまうように思われます。
(ⅱ)の神学的正当化の議論は、キリスト教のローカルな論法にすぎず、検討に値しない。
(ⅲ)の社会契約説は、ヒト社会が契約によって成り立つという着想そのものが人類学的事実の裏づけを欠く。のみならず、社会のはじまりは相互の契約であるという考え方は、旧約聖書のヤハウェとモーゼの契約を人々のあいだの契約に置き換えたものであり、これもまたキリスト教のローカルな発想の一般化にすぎない。
(ⅴ)の国際法からの議論は、司法は暴力に裏づけられてはじめて有効になるという現実を無視または軽視しており、本末転倒の空想的な議論、いわゆる〝お花畑〟の議論である。同時に、国際法はキリスト教的自然法を現代化したものといえるので、やはりキリスト教のローカルな発想の一般化であることをまぬがれない。
35. これらの反論は、どれも私が即席に組み立てたものにすぎませんが、どこかで誰かが言っていても不思議はない。そして、ここから浮かび上がるのは、(ⅱ)の中世の神学的議論はもとより、(ⅲ)の初期近代の社会契約説や(ⅴ)の近現代の国際法の議論が、いずれもキリスト教の発想にもとづいているということです。そして、日本語人はキリスト教の発想をうけつけない傾向がある。
36. 日本のキリスト教の信者数は、キリスト教系とされる宗教法人の信者数をすべて足し合わせても、全宗教の総信者数の0.7%(124万6742人)にすぎません(3の19:979)。また、キリスト教的な社会組織の原理、いいかえれば「過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける」(2の23:917)という「アガペー的な人間関係」(同:918)は、日本社会では成り立ちにくい。そして、そこには個人の自由と意志をめぐる彼我の違いが影を落としていると考えられます(同:964 & 965)。
37. 結局、(ⅰ)の古典古代の議論は教養人のたしなみとしてとりあえず押さえておくとして、(ⅱ)(ⅲ)(ⅴ)に見られるキリスト教的な発想は捨てて、(ⅳ)(ⅵ)のリアル・ポリティクスだけを奉ずる。このあたりが日本語人が西洋思想から学んだ国家的暴力の正当化の議論なのではないかと思います。このどこがまずいのか。
38. キリスト教を宗教としてうけつけないのは、別にまずいことではありません。そうではなくて、キリスト教を社会思想として本気で学ばないのがまずいのです。そのせいで、近代国家と国民とをむすびつけている根本の原理が見えなくなってしまった。社会学者マルセル・モースによれば、近代社会の市民にして一個独立の個人である人格(person)とは、「神以外の一切のものから独立した完全な存在者」(3の9:455, 458)であるとされます。この根本のありかたが見えなくなっているわけです。
39. キリスト教的な人間観においては、国家や社会制度以前に、個人と神との人格的な結びつきがまずある。個人が世俗権力に従うのは、世俗権力が神に背かないかぎりにおいて、言いかえれば、市民と神との結びつきを毀損しないかぎりにおいてです(3の10:481-509)。
40. まったく同じ論理で、統治権力の対内的と対外的の暴力が正当性をもつのは、市民と神との結びつきを毀損しないかぎりにおいてである。国家の暴力行使は、個人と神との結びつきに反しないかぎりにおいて正当性をもつ。ということは、一兵士がこの戦争は神に反すると考えたとき、原理において、その戦争は正当な暴力行使ではないことになるわけです。一人の兵士は、このとき国家と対等の、文字どおり、国家に優るとも劣らない位置を占めます。
41. もちろん、現実には一兵士の考えで戦争が止まったりはしません。しかし、西洋近代社会の市民・個人・人格は、この戦争は神に(真理と善と美に、人間性に)反すると、兵士や市民のひとりひとりが判断することが戦争を終わらせるはずであると、〝原理において〟そう信じている。正確には、意識して固く信じているというより、まったく自然にそれ以外に正しい考え方はないと感じている。つまり、そういう仕方で個人の生き方と国家の暴力行使がつながっているわけです。
42. 私たち現代日本語人は、個人と国家のこういう結びつきのありかたが、視野からすっぽり抜け落ちていると思います。抜け落ちているのが善いとか悪いとかいうのではなく、それが「私たち〔現代日本語人〕は、西洋近代思想が権力の肯定のために生み出した言説を知らず、理解せず、その言説を生きていない」ということなのです。個人と国家的暴力を媒介する自前の原理は失われ、西洋の原理は知らない。控えめにいっても、これはかなり困ったことです。
4.むすび
43. 上でこう述べました。「ほんとうは望んでなどいない戦争に〝いやいやすすんで〟参加させられるのは、できれば避けたい。誰でもそう思うでしょう。しかし、演技したり何かのふりをしたりする能力を根こそぎ捨ててしまうことはできない。では、一体どうすればいいのか。」(13)
44. この問いに取り組むためには、烏滸がましくも勉強するしかないなどといい(27)、ロックやルソーという名前を挙げたりもしました。しかし、知るべきことは、個々の思想家の言説というよりも、言説の背後に横たわっている原理や信念であると思われます。
45. 第3期に見たマルセル・モースは、自己と共同体にかかわる西洋の原理的な思考様式を明るみに出すことをこころみました。そのやり方を手がかりにして、自己と共同体、そして自己と世界にかかわる近代の暗黙の思考を読み解くことを、これからしばらくの課題としたいと思います。
46. 次回は10月25日土曜日に公開する予定です。第3期の論点をふりかえって、個と共同性の関係についてすでになにが明らかになったのか、確認することにします。


いつも難しいことをわかりやすく腑分けして説明してくださり、ありがとうございます。いろいろ頭の中が整理されました。
「個人が世俗権力に従うのは、世俗権力が神に背かないかぎりにおいて、言いかえれば、市民と神との結びつきを毀損しないかぎりにおいてです」
本来、そこにはやはり「integrity」があるわけですね。
か
キリスト教を信じなくとも、その考え方を学ぶことをせずに来てしまったのは、本当に残念で困ったことだと思います。
いつまでも「お上」の言うこと、すること何でも「御意!」で思考停止になってしまう日本語人が多いのは、そういう根本の原理を考えないからなのでしょう。
天皇制が瓦解しても、結局、「天皇」に変わる何かが神ならぬ「上」として、嫌々ながら進んで追従する対象になって、悲惨な末路に😖…いつか来た道にならないようにしたいものです。