[4の4] イエスはなぜ救い主なのか
(西洋近代と日本語人 第4期 その4)
1.はじめに
141. 第4期の3回分の議論をふりかえろうとしたところ、思ったよりややこしいことになりました。まず、日本語人の思想的な現在と、西洋キリスト教思想の本質と、暴力についての人類学的展望の三つが議論にかかわっている。さらに、議論の途中から、ほんとうの自己(主体)と、認識され描写される自己(客体)、という二つの自己のあり方が割りこんでくる。
142. 思想史的な三つの論点に、哲学的で心理学的な概念(主体、客体)が掛け合わされる。そのせいで、どの論点をどういう切り口で扱っているのか見きわめにくくなるわけです。こういうときは、最初から見直すのがよいと思う。
2.はじめのはじめ
143. このブログで今まで考えてきたことの底を流れているのは、
「日本語人は、考えの基礎的な部分で、近代という体制からはずれている可能性がある」(1の1:2.7)
という漠然とした感触です。たとえば、私もとにかく近代的な社会で生計を立ててきて、一応は近代民主制国家のもとにいて、基本的には近代のいろんな学問を自分の判断の基礎にして生きている。それでいて、なんとなく考えの基礎が近代という体制からはずれている感じがする。
144. 〝はずれている〟ことが顕在化した例として示したのは、
「私たち現代日本人は自信をもって〝正しい暴力〟を振るうことができない」
という気づきでした(1の2:3.8)。これは、2000年代に、松本人志や村上隆や村上春樹の、それぞれまったく文脈を異にする複数の作品を見わたしているときにふと感じたことです(同上)。
145. この気づきをすこし手直しして正確に書くと、以下のようになります。
「現代日本語人はたとえ〝大多数の人が肯定するような理由のある暴力〟であろうとも、自信をもって振るうことができない」(4の2:51)
「〝正しい暴力〟」はいくらか反語的な表現なので、これを正確にいいなおして、「大多数の人が肯定するような理由のある暴力」としてあります。
146. この自信の欠如の指摘が当を得ているとすると、現代日本語人は、近代国家をうまく運営できていないことになります。近代国家は警察力と軍事力という二つの暴力装置をもつことを前提としており(1の2:3.3, 3.4)、民主政体の場合、その暴力行使は国民ひとりひとりの意思決定、つまり個人の投企によって統御されます。暴力行使も含めて権力行使に個々人が自信のない状態では、原則として、近代国家が存続するのは難しい。
147. 現代日本語人が理由のある暴力の行使に自信がもてないとは、現代日本が近代民主制国家の実質を備えていないことを意味する。こうなった原因はなにか。そして、今後どうすればいいのか。第4期のブログは、この問いからはじまりました(4の1:13, 14)。
3.キリスト教が問題になるまで
148. まず、そもそも〝大多数の人が肯定するような理由のある暴力〟とはどういう暴力か。これに対しては、それは自己保存を理由とする暴力だろう、と回答しました(4の2:65-68)。ここから、自己保存のために必要であると感じられる度合いが大きいほど、人は暴力行使の正しさに自信をもつ、という仮定が導かれます(同:78)。今後もこの仮定を真らしいものとして受けいれて考察を続けます。これが冒頭にのべた「暴力についての人類学的展望」に相当します。
149. なお、自己保存という仕方で〝自己〟が論点に割りこんでくるので、主体としてのほんとうの自己と、客体としての認識され描写される自己という区別が必要になる。話がややこしくなる所以です。
150. さて、現代日本語人が理由のある暴力の行使に自信がもてなくなった原因として思いつくのは、まず1945年の敗戦で天皇制イデオロギーが瓦解してのち、現代の日本語人は対外的な暴力を肯定する言説をつくりだすことができなかったということ(1の9:3.200、4の1:5)。そういう言説は、こんな場合に暴力行使を肯定する、そうでない場合は肯定しない、という暴力行使の正しさを見わける役を果たします。言説をもたずに暴力装置だけをもっても、どう使ったらよいのか分からない。自信の欠如は避けられません。これが「日本語人の思想的な現在」の実態です。
151. もうひとつ、こうなった原因として考えられるのが、現代日本語人は西洋思想が暴力の肯定のために生み出した言説を知らず、理解せず、その言説を生きていない、ということです(1の9:3.200、4の1:5)。西ヨーロッパで近代国家が成立したときには、暴力を含む権力をどのように行使するかという大まかな合意があったはずです。西洋思想が「暴力の肯定のために生み出した言説」は、そういう合意を表現しています。
152. 西洋思想が暴力の肯定のために生みだした言説にはどのようなものがあるか。AIの助けを借りて六つの思想的言説の類型を挙げました(4の1:31, 32)。列挙すると、
(ⅰ) 自然の秩序と美徳にもとづく古代都市国家の言説。
(ⅱ) 神および神学的正義からの中世キリスト教の言説。
(ⅲ) 社会契約と主権国家論による初期近代の言説。
(ⅳ) 国家理性と現実主義からのマキャヴェリ的な言説。
(ⅴ) 国際法と法秩序論にもとづくグロティウス的・カント的な言説。
(ⅵ) 暴力を秩序維持や支配の道具と見るマルクス的・ウェーバー的な言説。
153. これらのうち、日本語人が「知らず、理解せず、その言説を生きていない」と思われるのはどれか。(ⅰ)は古代の話なのでひとまず脇におくとして、日本語人が理解したのは、(ⅳ)のマキャヴェリ的な現実主義と、(ⅵ)の秩序維持と支配のための暴力という議論だった。理解が及ばなかったのが、(ⅱ)(ⅲ)(ⅴ)の三つだった。これらはすべてキリスト教に発しています。社会思想としてのキリスト教思想は、日本語人の盲点になっている(4の1:34, 38)。ここから、「西洋キリスト教思想の本質」が問題になってくるわけです。
4.西洋キリスト教思想の本質
154. 「西洋キリスト教思想の本質」と掲げるとは、われながら大きく出たな、と思います。思いますが引き下がるつもりはない。西洋キリスト教思想の本質とは何か? 社会思想として見た場合、それは〝神は社会の大多数からはじき出された人のかたわらに立つ〟ということです。
福音書のイエス
155. 福音書の伝えるイエスは、罪ある人のためにこの世界にやってきた。
「私は義人を招くためでなく、罪人を招くために来たのだ」(マルコ2:17、並行記事マタイ9:9-13、ルカ5:27-32)*
注*:訳文は、田川建三訳著『新約聖書 訳と註 2上 ルカ福音書』(作品社2011)によります。以下、新約聖書の訳文は、田川建三訳著『新約聖書 訳と註 1~8』(作品社2007-2017)によります。
156. この言葉は、パリサイ派の律法学者がイエスを非難したときに発せられました。イエスと弟子たちの一行は、当時忌むべきとされていた罪人や取税人とともに食事をしていた。それをパリサイ派が見とがめて難詰した。これに対して、イエスは、自分が来たのは、律法にそって正しいとされる人々のためにではない、むしろ罪ありとされる人々のために来たのだ、と返したわけです。これが、〝神は社会の大多数からはじき出された人のかたわらに立つ〟ということです。ここにイエスの教えの特徴があります。(2の21:862, 863)
157. もうひとつ、ほとんど同じ状況で語られた有名な譬え話の一節を挙げておきます。
「あなた方のうちのある人が百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を失ったら、九十九匹を荒野に置いておいて、失われた羊を見つけるまで探しに行かないであろうか。」(ルカ15:4、参照マタイ18:10-14)
ルカ福音書では、この言葉もパリサイ派や律法学者が文句をつけたときに発せられたものです(マタイ福音書ではそうではない)。
158. 取税人や罪人がイエスの話を聴くために集まってきた。すると、罪人どもを受けいれるのか、とパリサイ派と律法学者が文句をつけてきた。それに対し、イエスは、失われた一匹は手もとの九十九匹より大事なのだと羊に譬えて語り、さらにこう言います。
「あなた方に言う、このように天にては、悔改めを必要としない九十九人の義人よりも悔改める一人の罪人に対して、喜びがあるであろう」(ルカ15:7)
正しいと認められる大多数ではなく、正しいと認められない一人のために自分はいるのだ。イエスは、くり返しそう語っていることになります。
宗教改革と神
159. 歴史的な事実として、集団からはじき出された人物のかたわらに神が立った(と解釈できる)例としては、マルティン・ルター(1483-1546)があります。ルターは、1521年にウォルムスの神聖ローマ帝国議会で異端を理由として審議の対象とされました。
160. ルターは当時のローマ・カトリック教会のありかたに疑問を抱いていた。とくに罪の贖いを宥恕する贖宥状(免罪符)という制度に疑いをもった。1517年、ウィッテンベルクにおいて神学者に討論を呼びかけたルターの「九十五箇条の提題」が人々に知られるに及んで、ルターとローマ・カトリック教会の関係は悪化していきます。
161. ルターによる討論の呼びかけに、教会の神学者たちからの応答はなかったようですが、「九五箇条の提題によってルターは一躍「時の人」となる一方、「渦中の人」となって」*いきます。アウグスブルグでの審問(1518年)、ライプツィヒでの討論(1519年)が行なわれ、1521年にはついに教皇庁から正式に「破門の大教勅」が発せられるにいたる。
注*: 徳善義和『マルティン・ルター』岩波新書2012、p.72。
162. 当時は、教皇庁が異端を宣告して破門し、そののちに世俗君主が異端者を罰する、という手順で異端者の処罰が進められました(徳善前掲書、p.72)。ルターは、ウォルムスの町で開かれた神聖ローマ帝国皇帝カール五世の帝国議会に喚問されます。ルターの公表した書き物をもとに審問が行なわれた。ルターは自分の考えを一切取り下げない。そして、こう答えたとされます。
「聖書の証言と明白な根拠をもって服せしめられないかぎり、私は、私が挙げた聖句に服しつづけます。私の良心は神のことばにとらえられています。なぜなら私は、教皇も公会議も信じないからです。それらはしばしば誤りを犯し、互いに矛盾していることは明白だからです。私は取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも、得策なことでもないからです。神よ、私を助けたまえ、アーメン」(徳善前掲書、p.85)
163. 「教皇も公会議も信じない」とはっきり言い、自分は自分の見出した神のことば(「聖句」)にのみしたがう、聖書の証言と明白な根拠がなければ自分の考えを取り下げるつもりはない、こう明言しています。最後に、「神よ、私を助けたまえ、アーメン」とある。ルターは自分が神の加護の下にあると信じている。
164. 自分を破門した教会の権威を「信じない」と拒絶し、なおかつ神は自分とともにあると信じることが可能だった。キリスト教の信仰は、こういう仕方で、つまり、信仰者の集団から排除された個体が、むしろ自分こそが神の加護の下にある存在であると信ずることができるような仕方で、成り立っています。このとき、「私は罪人を招くために来た」というイエスのことばは、社会からはじき出されて孤立した人の心の中で、自分は今こそ神の許にいる、と信じる根拠になっているはずです。
現代社会とイエス
165. もうひとつ、現代の例を、ただし文学作品のなかの例を挙げておきます。現代アメリカの作家、ティム・オブライエン(Tim O’Brien 1946~ )は、兵士としてヴェトナムの戦場を経験しました。短篇「レイニー河で」は、穏健な反戦的立場の大学卒業生が、徴兵通知を受け取ってから入営に応ずるまでの葛藤を描いた作品です。作者の体験にもとづくと思われます。
166. 主人公の青年は、徴兵通知を受け取ったとき、自分をむりやり戦場へ送ろうとする国家に対し、激しい怒りを感じます。次いで、自己憐憫がやってくる。だが、しだいに一種の無感動にいたります。そうしてカナダへ脱出することを夢想するようになる。
167. 青年は、ある日、故郷ミネソタ州の町を車で出発します。北へ向かい、国境を流れるレイニー河のほとりまで来る。向こう岸はもうカナダです。釣り客用のロッジに泊まり、脱出を実行できぬまま無為に数日を過ごします。宿の主人、八十一歳の老人エルロイ・バーダールは、なにも尋ねずに主人公を泊めてやっている。が、ある日、こう言うのです。
「なあ、オブライエン、イエス様はいなさるぞ」*
注*: ティム・オブライエン「レイニー河で」、同『本当の戦争の話をしよう』村上春樹訳、文春文庫1998所収、p.88)
168. この老人は、オブライエン青年を釣り用ボートで向こう岸のすぐそばまで連れて行ってやります。あと20ヤードでカナダだった。しかし、流れに飛び込んで向こう岸へ泳ぎ渡ることが青年にはどうしてもできない。戦争への加担を拒否すべきだとわかっているのに、人々の期待に背くことが恐ろしくて、行動する決断ができない。自分には勇気を奮い起こすことができない。それがわかってしまった。
「そしてそこで私は屈服してしまった。」(上掲書、p.99)
この短篇は次の言葉で終わります。
「私は卑怯者だった。私は戦争に行ったのだ。」(同上p.100)
169. 「レイニー河で」の主人公は、自分の理想を貫くべき局面で、周囲に負けてしまう。ちょうど歴史上のルターの反転像のようです。だが、イエスが現れる場面は正確に同じです。個人が周囲の人々の意向に逆らって行動しようとする場面で、イエスはその人のかたわらに立っている。ルターが教会に逆らうとき助けを求めた神は、オブライエン青年が屈服するのを見つめている神です。その眼差しの下で、青年は、まわりの人々の期待に合わせてしまった自分を、卑怯者と見なさざるをえなかった。
イエスとほんとうの自己
170. 「義人を招くためでなく、罪人を招くために来た」(上掲154)というイエスの言葉は、世にある義と不義の判断を一切認めないという宣言に聞こえます。だからイエスは、人がまわりの意向に逆らって自分の信ずるところを行おうとするとき、かたわらにいる存在となることができるわけです。
171. 救い主イエスの教えが集団からはじき出された反抗的人間の支えになるのはなぜか。この問いへの答えは、上のイエス自身の言葉だけでなく、アガペーとしての愛の教義から導くことができます(後述)。だが、それを示す前に、上のイエスの言葉と自己の概念の関係を見ておきます。
172. 自己の概念が現在の論点に割り込んできたのは、ひとつには、自己保存のための暴力を、理由のある暴力の候補と見なすことにしたからです(上記147)。もうひとつには、近代国家は革命を通じて発見された新たな自己のありかたを守るためにできた、という歴史解釈を、私がもっているからです(4の2:80、4の3:105, 106)。
173. 市民革命を導いた17世紀の政治哲学において、人類の自然状態として発見されたのは身体をもつ個人だった。ジョン・ロック(1634-1704)によれば、神は人間が身体を所有するように創造した。個人が身体を所有することを通じて、ただちに当該個人における身体活動(労働)の生産物の所有も成立する。人間は、自然状態において、神の定めた自然法の下でこうして身体と労働生産物の所有権をもっている。近代国家は、この所有権をもつ個人を守るために、人々の相互の契約を通じて形成される。(4の3:114-116)
174. すると、近代国家にあっては、自己保存のための暴力は、所有権をもつ個人を守るための暴力である。こういうことになります。しかし現実の戦争においては、〝所有権をもつ個人〟を守るための暴力は、しばしば〝個人の所有権〟を守るための暴力に姿を変えてしまう。ヴェトナム戦争はある意味でそういう戦争だった。こうして、自己を守るための暴力が自己の所有権を守るための暴力に変貌すると、所有権は守られたが自己は滅びた、という結果が生じることになります。(4の3:118-121)
175. ここには、個人と共同体をめぐる厄介な問題がおそらく複数隠れていますが、少なくとも、所有権を守ることは、それがたとえ〝自分の〟所有権であるとしても、そのまま自己を守ることではない。自己は一個の主体であり、所有権は主体がもつ客体ないし属性にすぎないからです。自己保存のための暴力は、客体ではなく、主体としての自己を守るのでなければならない。
176. 主体としての自己を守るための暴力が成立するためには、主体としての自己をとらえる手続きが必要です。ロックの場合、主体としての自己は、所有権をもつという属性を通じて同定されました。だが、所有権を守っても主体としての自己を守ることには必ずしもならなかった。要するに、なんらかの属性を通じて主体を同定し、その属性を命懸けで守ってみても、属性の持ち主である主体は必ずしも守られない。結局、属性を守っても仕方がない。ということは、属性を通じてではなく、主体としての自己を直接とらえることが必要になるということです。
177. 主体としての自己を、属性を通じてではなく、直接とらえる方法があるだろうか。私の考えでは、次のような仕方でそれはありえます。すなわち、ある人の主体としての自己は、その人が共同意図を拒絶するときに、かいま見ることができる。その人だけでなく、まわりにいる人々もかいま見ることができるはずです。
178. まず、共同意図とは、二人以上の人物の自発的な同意(コミットメント)によって成立する意図のこと、「私たちは一緒に○○する」という意図のことです。たとえば、「私たちは一緒に散歩する」といった意図。次に、共同意図を拒絶するとは、一緒にそれをするのをやめること。たとえば、一緒に散歩すると決めてしばらく歩いていたけれど、「私はもういやだ」と宣言し、歩くのをやめるということです。(共同意図と共同行為について、くわしいことは、3の17、18、19の3篇をご覧ください。)
179. 共同意図を拒絶する振る舞いについては、3の 19 で取り上げて論じました。ティナとリーナは30分ぐらい一緒に歩こうと思い立ち、そのように合意します。ところが、15分ほどたったところでリーナが立ち止まり、「もう歩くのいやになった」と言う。それを聞いて、ティナも、なんだかほっとした様子で「実は、私ももういやになってたところ」と応じたとします。(3の19:984-1004)
180. 二人とも、30分一緒に歩くと約束したから歩いていた。だが、一人がもういやだと表明したことによって、当初の約束を反古にすることが可能になった。いやになっているのをお互い確認する瞬間まで、二人はいやいや歩いていたわけです。
181. 自分個人としてはそうする意図はもっていないのに、共同意図(当初の約束)に従って行動する。こんなことができるのは、人間には非現実をあたかも現実であるかのように提示する能力があるからです。「真似をする」「演技する」「何かのふりをする」「嘘をつく」「物語を作る」といった行為はこの能力の発現です。(3の19:1015)
182. ほんとうは従いたくない共同意図にあえて従って行動することは、非現実の同意を現実の同意であるかのように表現することです。これは一種の演技であり、作り物の現実、つまり虚構を生きることです(3の19:1016)。逆に、従いたくない共同意図を拒絶することは、虚構を生きるのを拒絶することであり、演技を拒絶することです。
183. 演技の拒絶は、演技しない自分にもどること、いいかえれば、虚構を生きるために強いられる仮面や役柄を脱ぎ捨てて、生身の自分にもどることです。生身の自分にもどるとき、主体としての自己がかいま見える。こういう次第で、主体としての自己を直接とらえることは、共同意図を拒絶する瞬間にかいま見るという仕方で可能になります。しかし、「拒絶する瞬間にかいま見る」としか言えないのはなぜか。じっと見つめることはできないのか。
184. まず、細かいことを言うと、共同意図を拒絶して生身の自分にもどるとき、この生身の自分が主体としての自己そのものであるかというと、必ずしもそうは言えません。生身の自分も、ある属性を通じてとらえられる。リーナの例でいえば〝もう歩くのはいやになった〟という属性を通じてとらえられている。主体としての自己は、その属性の持ち主であり、主語となって述語とならない存在です。だから、生身の自分は、そのまま主体としての自己であるわけではない、といったほうがいい。
185. しかし、主体としての自己の上に過去のいろいろな経験が積み重なってリーナという個人が形成されたのであり、まさに〝ほかならぬその個人〟であること(個体性 individuality、自己同一性 identity)の発現として「もう歩くのいやになった」という言葉が発せられている。だから、この言葉は、自己の属性を記述する言葉ではあるけれども、リーナがまさにその個人であること、つまり主体としての自己を表出するものでもある。
186. 共同意図が破られるとき、それを破るはたらきは主体としての自己から出てくると考えてよい。というのも、複数個体からなる集団が共同行為しているとき、行為の共同性が破れるとしたら、それは個体のどれかが共同性を破る動きをするからです。その動きは主体としての自己に発している(これは自然な考え方だとは思いますが、つねに成り立つのかどうか、確信はありません)。こうして、主体としての自己は、それが帰結する変化を通じて検出される。たとえば、無言で歩いている状態から「もう歩くのはいやになった」と発する状態への変化として検出される。というわけで、主体としての自己は、共同意図を拒絶して「もういやだ」と表明する瞬間に、かいま見ることができるわけです。
187. だから、かいま見るだけじゃなく、じっと見つめるわけにはいかないのか、という疑問が湧くと思います。自分をじっと見つめると、「もういやだ」の背後に、さらにこれの否定「そういやでもない」がうごめいているかもしれないのを忘れる。これは危うい。固定した記述の下で自分を見つめていると、それが動いて変化しているものであるのを忘れてしまう。結局、主体としての自己とは、矛盾をふくむ混沌とした力の渦のようなものだ、と私は考えているわけです。そのありようは、ある瞬間の変化を通じてかいま見ることができるだけだ、ということにしておきたい。
188. ルターは、自分の主張を取り下げてカトリック教会に同調するよう求められたとき、取り下げを拒んだ。教会から見れば、それまで自分たちの教義を認めて共同行為をしていたのに、ルターが「もういやだ」と言い始めたことになる。その変化によって、ルターの主体としての自己は、本人にもまわりの人々にも明らかになりました。
189. オブライエン青年は、ヴェトナム戦争に出征するよう求められたとき、それを拒否しようと思った。拒否する意志は、イエスの眼差しの下で、自分が心に抱いたものである。つまり、徴兵を拒否することは、神と自分の共同意図だった。だが、共同意図を裏切って、徴兵に応じてしまう。この変節の瞬間に、オブライエン青年は主体としての自己の真の姿をかいま見ざるをえなかった。「私は卑怯者だった。私は戦争に行ったのだ。」という言葉は、かいま見たものがなんであったのかを告げています。
アガペー(愛)とほんとうの自己
190. イエスは反抗的人間の側に立つということとアガペーとしての愛の教義の関係を簡単に示しておきます。(アガペーとしての愛の教えについて、くわしくは2の19から26を見てください。西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の19]|tetsujin ~ 西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の26]|tetsujin)
191. イエスは、ユダヤ教の伝統的な愛の教え、すなわち「主なる汝の神を愛すべし。また、おのれの如く汝の隣人を愛すべし」(ルカ10:27)をそのまま肯定します。しかしこの隣人愛を、大胆に、見知らぬ人や敵にまで及ぼすように拡張する。これがイエスの教えの特徴です。
「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎めと言われていることを、汝らは聞いている。しかし私は汝らに言う。汝らの敵を愛し、汝らを迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)。
192. 敵までも愛さねばならないのはなぜかというと、「父はその太陽を悪しき者にも善き者にも昇らせ、義人にも不義なる者にも雨を降らせ給う」(マタイ5:45)からです。父なる神は、わけへだてをせず、すべての存在に対し、善を意志して無差別にはたらきかける。これが神の愛(アガペー)です。
193. そして、「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全であれ」(マタイ5:48)と命じられているので、人もまた、好ましい相手だけに対して善を意志する(愛する)のではなくて、敵対する者の善をも意志する(愛する)のでなければならない。
194. すると、アガペーとしての愛の教えは、まず、神は不義なる者をも愛するという仕方で、正しからざる者、罪ありとされる者のかたわらにも神がいると語っている。これは、基本的に「罪人を招くために来た」というイエスの言葉と合致します。
195. 次に、アガペーとしての愛の教えは、人が敵対者の善を意志することを命じている。これは、敵対するにいたった過去のいきさつを離れ、相手の善を願ってはたらきかけよということです(2の23:917, 918)。だから、共同意図に反抗して孤立を選び取るような人物に対しても、人は共同体の一員としてわけへだてなく善を願わねばならない(3の19:1022~1029)。これは、集団からはじき出された人のかたわらに立つというイエスの行ないを人々がまねることです。
196. 以上のとおり、アガペーとしての愛の教えは、共同意図にあえて反抗してほんとうの自己に還ろうとする人とともにあることを人々に命じている。こういう次第で、社会思想としてのキリスト教の本質は、「〝神は社会の大多数からはじき出された人のかたわらに立つ〟」(上記153)ということであるといってよいのではないかと私は思うわけです。
5.むすび
197. さきに、「自己保存のための暴力は、客体ではなく、主体としての自己を守るのでなければならない」(174)と述べました。主体としての自己を守るとはどういうことなのか。ここまでの議論から明らかなように、それは、共同意図に反抗する人を守ることです。
198. 反抗する人が自分であるか他人であるかは問いません。人は誰しも、共同体の合意に違和感を覚え、まわりが期待するのとは異なる行動をしたいと欲することがある。共同体の合意から身をもぎ離して生身の自分に還ろうとする人がいたなら、それが自分であろうと他人であろうと、その人のかたわらに立つ。このことを社会思想としてのキリスト教は要求しています。
199. 上で「社会思想としてのキリスト教思想は、日本語人の盲点になっている」(152)と指摘しました。日本語人が知らないのは、共同意図に反抗する人を守るという思想なのです。
200. 以前、マルセル・モースの人格(person)の概念史を検討したとき、西洋文明の「偉大な財産」(3の8:391)たる人格の概念とは、「私が私であることは社会的役割の遂行である」(3の9:411)という逆説的な主張に帰着することを見いだしました。しかし、この主張が一個の逆説に見えてしまうのは、私たち日本語人が、共同意図に反抗する人の側に立つというキリスト教の社会思想に親しみがないからなのです(3の10:508, 509)。
201. ただし、この思想は自己保存のための〝暴力〟とはかなり遠いものです。まして国家的な暴力行使の正当性といった概念とはかけ離れている。社会思想としてのキリスト教が国家や暴力に結びつく事態は、西洋の歴史のなかで、キリスト教会という聖なる権力が世俗君主の統治権力をのみ込んで行く過程で成立したと考えられます。(4の3:128-139)
202. 次回は、このあたりについて考えてみたいと思っています。とりあえず、年が明けて2026年の1月24日(土)を公開予定日とします。


》社会思想としてのキリスト教思想は、日本語人の盲点になっている
以前、ドイツのカトリックの学者の方の講演を聴いたことがありました。
彼は「民主制はキリスト教を基礎としている。だから民主制は制度として非キリスト教世界に輸出出来ても、本質的には輸出出来ないもの」だと仰っていて、私はこの言葉にとても納得をしました。
》正しいと認められる大多数ではなく、正しいと認められない一人のために自分はいるのだ。イエスは、くり返しそう語っていることになります。
ある東アジアの国(日本ではありません)の非クリスチャンの方と議論をした時に「道徳というのは人それぞれの主観に過ぎないでしょう?だから道徳に従うのは危険だと思う。法律こそ正義だと思う」という考えを聞いた時にとても衝撃を受けた事があります。
私自身は考え方の基礎はキリスト教に基づいています。私にとっては道徳(=神の定めた道徳)こそ絶対であり、法律は時と共に移り変わる人間の主観が入った人間が作成したものでしかないからです。
私は非クリスチャンの日本人の考え方をそんなによく理解している訳ではありませんが、もしかしたら日本人の考え方にもこれ(道徳より法律が絶対という思考)と共通した思考方式があるのでしょうか?
この説明↓は、とてもすっきり、ストンと腑に落ちました。
「「社会思想としてのキリスト教思想は、日本語人の盲点になっている」(152)と指摘しました。日本語人が知らないのは、共同意図に反抗する人を守るという思想なのです。」
まだ「主体」について、よくわかってないので、もう一度読み直したいと思います。