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》社会思想としてのキリスト教思想は、日本語人の盲点になっている

以前、ドイツのカトリックの学者の方の講演を聴いたことがありました。

彼は「民主制はキリスト教を基礎としている。だから民主制は制度として非キリスト教世界に輸出出来ても、本質的には輸出出来ないもの」だと仰っていて、私はこの言葉にとても納得をしました。

》正しいと認められる大多数ではなく、正しいと認められない一人のために自分はいるのだ。イエスは、くり返しそう語っていることになります。

ある東アジアの国(日本ではありません)の非クリスチャンの方と議論をした時に「道徳というのは人それぞれの主観に過ぎないでしょう?だから道徳に従うのは危険だと思う。法律こそ正義だと思う」という考えを聞いた時にとても衝撃を受けた事があります。

私自身は考え方の基礎はキリスト教に基づいています。私にとっては道徳(=神の定めた道徳)こそ絶対であり、法律は時と共に移り変わる人間の主観が入った人間が作成したものでしかないからです。

私は非クリスチャンの日本人の考え方をそんなによく理解している訳ではありませんが、もしかしたら日本人の考え方にもこれ(道徳より法律が絶対という思考)と共通した思考方式があるのでしょうか?

佐々木香織's avatar

この説明↓は、とてもすっきり、ストンと腑に落ちました。

「「社会思想としてのキリスト教思想は、日本語人の盲点になっている」(152)と指摘しました。日本語人が知らないのは、共同意図に反抗する人を守るという思想なのです。」

まだ「主体」について、よくわかってないので、もう一度読み直したいと思います。

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