[4の5] コップの中の嵐と不合理な行為
(西洋近代と日本語人 第4期 その5)
1.はじめに
203. 昨秋来、高市早苗首相の発言を発端とする日本政府の外交上の失態を見ていて、なんともやりきれない気持ちになっています。台湾有事の際は武力行使を考慮すると明言してしまった。本人としては一生懸命やっているようだ。だが、そもそも視野が狭くて知識が足りないので、本人が自分の思いを正直に述べると、それが大きな災厄となって周囲に降りかかる。たとえそれがコップの中でも嵐は嵐です。
204. 専門的な洞察力を要する職務を担っているのに、当人にはそれにふさわしい自覚も能力もないように見えます。こういう人を指導者に選んではいけない。だが、多くの選挙民にはそれがわからない。
205. だから結局日本の人々は、この次の戦争でも、なぜ自分たちが戦争するはめになったのかのみ込めないまま死ぬことになるんだろう。運よく生きのびた人は、この次の戦後でも(そのとき日本国は存在しないかもしれない)、わけもわからず戦争してしまったことは記憶から消して、戦争だけはやっちゃいけない、とくり返すんだろう。
206. 首相のみならず、日本語人の大多数が、アジア太平洋戦争に突っ込んで行った経験からなんらの教訓も引き出すことができず、ふたたび似たような破滅にむかって進んでいる。そっちへ行ったらダメだという方向に、嬉々として人々が向かっていくのを見るのは気が重いことだ。
207. とまあ、えらそうに書きましたが、これは、なんだかひどいことになったなあという落胆の気持ちゆえの八つ当たりです。私にはなにが起こるか確たる見通しなどありません。
208. 高市発言は、しかし、私が考えてきたことをひっくり返す含みがあります。このところ私が考えてきたのは、いったいなぜ「現代日本語人はたとえ〝大多数の人が肯定するような理由のある暴力〟であろうとも、自信をもって振るうことができない」のか(4の4:145)、という問題でした。
209. ところが、首相の発言が示唆する心理はこれとは違っていました。むしろ現代日本語人は、まともな理由のない暴力であろうとも、思いつきのことばに乗っかって実行してしまいそうです。あの発言に違和感を覚えない人々が多数いるらしい。これは私の考えとちょうど逆さまです。掘り下げて考えてみる必要があります。
2.高市発言雑感
210. 首相の問題の発言は、衆議院予算委員会の議事録で読むことができます。
「先ほど有事という言葉がございました。それはいろいろな形がありましょう。例えば、台湾を完全に中国、北京政府の支配下に置くようなことのためにどういう手段を使うか。…(中略)…戦艦を使って、そして武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になり得るケースであると私は考えます。」(第219回国会 予算委員会 第2号(令和7年11月7日(金曜日)))
211. 「戦艦」は、「戦争に用いる船」の意味であるとのこと(12月2日閣議決定)。中国政府が台湾を支配下に置くために、軍用の艦船を使って武力行使を伴う行動を起こせば、それは日本国の存立危機事態となりうる。そう言っている。では、そもそも存立危機事態とは何か。
212. 存立危機事態は、以下のように定義されています。
「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。」(武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律 | e-Gov 法令検索、二条四項 )
いろいろ疑問は湧きますが、それはさておいて、では、いったい日本国は、このように定義される事態において何をするつもりなのか。
213. 「存立危機事態においては、存立危機武力攻撃を排除しつつ、その速やかな終結を図らなければならない。ただし、存立危機武力攻撃を排除するに当たっては、武力の行使は、事態に応じ合理的に必要と判断される限度においてなされなければならない。」(同上、三条四項)
要するに日本政府は、存立危機事態においては「合理的に必要とされる限度において」武力を行使するつもりである、といっている。
214. 以上をつづめて述べると、「台湾を完全に中国、北京政府の支配下に置くようなことのために…(中略)…戦艦を使って、そして武力の行使も伴う」行動が行なわれた場合、それは日本国民にとって「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」なので、「合理的に必要と判断される限度において」武力を行使する。こういうことです。
215. 見たところことば遣いは明快です。しかし、一歩踏み込んでその内実を確定しようとすると、曖昧になる。とくに、中国政府が台湾に対して武力を行使することが、日本国民の「生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」に該当する、という話は理解しがたい。たしかに台湾の住民の生命、自由、幸福追求の権利が覆される恐れはある。しかし、日本国民もそうなる危険、それも「明白な危険」があるというのは、にわかにはのみ込みがたい。風が吹けば桶屋が儲かるみたいな妄想めいた連想によらないかぎり、かなり無理があると思います。
216. 無理を取り繕うために、どういう理屈が持ちだされているのか。その理屈の背後に、また別のどういう真の狙いがあるのか。私は、きちんと調べたことがないので、確たることは言えません。だから、以下に述べるのは、聞きかじりの水準の、いわば〝昔は床屋でした話〟です。
217. たとえば、米軍が中国の武力行使に対抗して作戦行動を起こせば、当然、日本国内の米軍基地とその周辺は攻撃を受けるだろう。それは日本の領土に対する攻撃なのだから、日本国政府は自衛権を行使することがありうる。こういう理屈は成り立つでしょう。
218. もうひとつ、米軍が中国軍と海上で武力衝突すれば、それは「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」に相当するといえる。この場合、日本の領土が攻撃を受けていなくても、上の定義に照らして存立危機事態に該当する可能性はある。すると、日本の武力行使の可能性も生じる。このような理屈も考えられます。
219. 上の高市発言は、二番目を想定しているように聞こえます。一番目の、日本国内の米軍基地とその周辺にミサイルが着弾する事態は、上記の法律とかかわりなく、従来の考え方にしたがって自衛権の行使があり得る事態です。ただし、事ここに到った場合、自衛隊には有効な反撃や防禦の手段はないと思う。想定される事態は日本を戦場とする米中の戦争を意味しており、そうなったらおしまいという最悪のシナリオです。もともと自衛隊に敵基地攻撃能力はない。ミサイル迎撃システムも万全にはほど遠いようだ。反撃も防禦もできない。打つ手はないでしょう。
220. というわけで、高市発言が想定しているのは、どうやら、米軍が中国軍と海上で武力衝突し、かつ、戦闘がまだ日本国内の米軍基地などへの攻撃には拡大していない、という流動的で微妙な状態のようです。この状態が日本国民の「生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」に該当する、したがって、日本政府として武力行使を考慮する、というのは、どこをどう押せばそういう話になるのかわかりません。
221. 日本近海でのいかなる武力衝突も、外交的手段で未然に防ぐ。不幸にして衝突が起きても拡大させないよう努める。これが日本国民の「生命、自由及び幸福追求の権利」を守るために第一に必要なことです。流動的かつ微妙な状況で、自分もすすんで参戦するというのは、控えめにいっても愚策ではないか。なんでそっちへ行くのか理解しがたいものがあります。
222. 高市早苗は、このまま行けばわけのわからない戦争に日本国民を引きずり込む結果になる。だが国民は彼女を支持している。だから、国民はなぜ自分たちが戦争しているのかのみ込めないまま死ぬだろう。後になれば、戦争だけはやっちゃいけなかったとくり返すだろう。なんともやりきれない気持ちになるわけです。
3.何が問題なのか
223. 床屋政談めいた雑感はここまでにします。だが上に述べたように、高市発言の示唆するところは、私の考えてきたことをひっくりかえす含みがある。自分は見当ちがいの問いに取り組んでいるのじゃないか。そんな気がしてきます。以下ではそこを検証します。
224. 私が取り上げてきたのは、くり返しになりますが、いったいなぜ「現代日本語人はたとえ〝大多数の人が肯定するような理由のある暴力〟であろうとも、自信をもって振るうことができない」のか(4の4:145)、という問題でした。これに対し、高市発言が示唆するのは、現代日本語人はまともな理由のない暴力行使であろうとも、ほんの思いつきのことばに乗っかって実行してしまいかねない、ということです。単純化して対比を明確にすれば、私の問いは、正当な理由があっても暴力行使しないのはなぜか、ということ。高市発言の示唆は、正当な理由がなくても暴力を行使する、ということ。この二つは、互いに反転画像のような関係にあります。
225. 具体的に考えてみます。前者「正当な理由があっても暴力行使しない」は、たとえば、犯人であるのが明らかなのに逮捕しない、といった例を思い浮かべればよいでしょう。直感的にいうと、これは正義を実現するための暴力行使が足りない世界です。
226. 同様に、後者「正当な理由がなくても暴力行使する」の方は、逆に、無実であるのが明らかのなのに逮捕する、といった例を思い浮かべればよいでしょう。こちらは、直感的には、暴力行使を制御するための正義のはたらきが足りない世界です。
227. というわけで、上の二つは、たしかに、反転画像というか裏がえしというか、対立する関係にあると言ってよいようです。
228. 現代日本語人という同一の対象について、このように二つの対立する所見が得られている。しかも、どちらか一方が事実の観察として間違っているわけではない。だから、どちらかを捨てればすむというわけにはいかない。
229. まっとうな理由があっても暴力行使ができないという所見は、2000年代半ばに、松本人志、村上隆、村上春樹らの、分野も文脈も異なる複数の作品に接した経験から得られました(1の2:3.8、4の4:144)。ろくな理由がなくても暴力行使ができるという所見は、昨秋来の高市発言をめぐる観察から得られました。どちら所見も私がたしかにそう思った以上、斥けるべきではないと考えます。
230. 二つの所見には、20年余りの時間の隔たりがあります。この間の時の流れが対立を説明するかもしれない。この20年余りで日本語人の態度が変化して、正当な理由があっても暴力を行使しない遅疑逡巡の状態から、正当な理由がなくても暴力を行使する軽挙妄動の状態へ移行したのかもしれません。
231. また、二つの所見には、観察対象の違いもあります。遅疑逡巡の印象は、才能ある表現者の作品の観察から得ました。軽挙妄動の印象は、政治家の言動と大衆の反応の観察から得ました。いつの時代でも、才能ある表現者は思慮深い傾向をとらえ、大衆は軽はずみに流れるのかもしれません。
232. しかし、表現者と大衆は、そんなにきっぱり区別できるものではないし、そもそも私が観察した表現者は、みな孤高の人ではなく、それぞれ大衆に支持されている人です。また、20年余りの歳月は、変化が起きた舞台にすぎず、歳月自体は変化の作用因ではないでしょう。時の流れや表現者と大衆の違いが対立を説得的に説明するとは思われません。むしろここは、現代日本語人という大まかなくくりを活かして考えた方がよさそうです。
4.対立の説明
233. 最初に以下で行なう説明のすすめ方を抽象的に述べておくと、
(ア)20余年前に観察された日本語人と今どきの日本語人には一つの共通の特徴があって、その特徴が、
(イ)ある条件下では遅疑逡巡をもたらし、
(ウ)別の条件下では軽挙妄動をもたらす、
と説明できればすっきりします。あれこれ思いめぐらしていたら、そういう説明が可能なように思われてきたので、それを以下に述べてみます。
共通の特徴
234. 20余年前の日本語人と今どきの日本語人に共通の特徴は、両者の対立の記述そのものにすでに現れています。日本語人は、20余年前の観察では、まっとうな理由があっても暴力を行使できないのでした。これに対し、現時点の観察では、ろくな理由がなくても暴力を行使してしまいそうなのでした。
235. この対立から、両者の共通点を抽出できます。要するに、日本語人は、今も昔も、理由づけと暴力のあいだに均衡のとれた結びつきを維持することができないのです。一方は理由があるのに暴力行使しない、他方は理由がないのに暴力行使する。理由と行使の均衡が崩れています。
236. 上で述べた言い方(225, 226)を使うと、正義を実現する暴力が足りないか(20余年前の観察)、暴力を制御する正義の力が足りないか(現時点の観察)、どちらかに偏ってしまう。暴力を行使するときは正当な理由があり、かつ、正当な理由があるときは暴力を行使する、という望ましい均衡(理由の存在と暴力の行使が必要十分条件になる理想的状態)を実現できない。
237. なお、「暴力」ということばはとても印象が悪い。禁忌の意識がどうしても付随します。どんな理由があるにせよ暴力を振るってはいけない、と決めつけられやすい。否定的な含意が付随するのは避けたいので、しばらく「暴力」を「権力」に置き換えて考えてゆきます。
238. 即ち、望ましい均衡状態とは、権力を行使するときは正当な理由があり、正当な理由があるときは権力を行使する、ということなのだ。現代日本語人は、今も昔も、この均衡状態を実現することに失敗している。理由に対して権力行使が過少だったり(20余年前)、過多だったりする(現時点)。これが共通の特徴になります。
239. 理由があるのに権力を行使できない、あるいは、理由がないのに権力を行使してしまう、という二つのあり方は、一般化すると、理由づけと行為のあいだの関係が崩れている、と表現できます。一方は、理由があるのに行為しない。もう一方は、理由がないのに行為する。この二つの類型は人間の不合理な振る舞いを表現しています。ですから、現代日本語人は、今も昔も、権力行使に関わる局面で、不合理に振る舞う傾向をそなえている。この言い方でも、共通の特徴を言い表すことができます。
240. 「権力行使に関わる局面」とは、どういう場面なのか。権力(power)とは、あっさり言えば、他人に何かをやらせたり、やめさせたりする力です。なお、自分自身に何かをやらせる・やめさせる力は、通常、「意志」と言います。意志は自分を動かす力で、権力は他人を動かす力です。だから、「権力行使に関わる局面」とは、他人を動かしたり止めたりする局面、言いかえれば、自分だけでなく他人も共にいる場面、つまりは社会生活の場面です。
不合理性の説明
241. 理由があるのに権力を行使できない、あるいは、理由がないのに権力を行使してしまう、という二つのあり方を、もう少しわかりやすく言いかえます。この二つは、簡略にいうと、〈そうする理由があるのにそうしない〉および〈そうする理由がないのにそうする〉ということです。この形の方が扱いやすいので、しばらく言いかえて考えます。
242. さて、社会生活の場面では、〝そうする理由〟はどういう心理機構で行為者に生ずるのか。人間が何かをする理由はいろいろ考えられますが、特に社会生活の場面に限定して考える場合、注目に値するのは、何かをする理由が慣習や社会規範によって与えられる場合です。その場ではそうすることになっている、という理由で、私たちは何かをすることがよくあります。
243. この場合、〈そうする理由があるのにそうしない〉という現象は、次のようにして容易に起こり得ます。すなわち、慣習や規範の水準ではそうする理由があるが、行為者個人にはそうする理由がないのでそうしない。これは、例えば、日本社会の慣習の水準では、嫁には舅や姑の介護をする理由があるが、ある嫁個人にはそうする理由がないのでそうしない、といったこと。慣習に対して個人の力がまされば、こうなります。
244. 同様に、〈そうする理由がないのにそうする〉という現象も、上の図式を逆転させて、行為者個人にはそうする理由がないのに、慣習や規範の水準ではそうする理由があるのでそうする、という仕方で起こり得ることがわかります。例も逆転させればよい。すなわち、嫁個人には舅姑を介護する理由はないのに、日本社会の慣習の水準ではそうする理由があるのでそうする、ということ。個人に対して慣習の力がまされば、こうなります。
245. 先に、〈そうする理由があるのにそうしない〉と〈そうする理由がないのにそうする〉という二つの行為類型は、人間の不合理な振る舞いを表現していると言いました。しかし、慣習や規範という共同的な水準と、行為者個人の水準を分けて考えると、これらの類型を一概に不合理と呼ぶべきではないことがわかります。
246. 〈そうする理由があるのにそうしない〉というのは、共同的にはそうする理由があるが、個人的にはそうする理由がないのでそうしない、ということです。個人の理由づけの力が、共同体の力にまさっている。このとき、個人の水準では合理性が一貫して保たれます。
247. 同様に、〈そうする理由がないのにそうする〉というのは、個人的にはそうする理由がないが、共同的にはそうする理由があるのでそうする、ということです。こちらは共同体の理由づけの力が、個人の力よりまさっている。このとき、共同体の水準では合理性が一貫して保たれます。二つの行為類型は、このようにそれぞれ合理性を満たす形でとらえ直すことができます。
248. ここまでの検討でなにが判明したのか。20余年前の日本語人と現在の現代日本語人の共通の特徴がわかりました。それは、理由づけと行為のあいだの均衡が崩れている、ということです(238, 239)。そして、その均衡の崩れがどういう心理的メカニズムで起こるのかもわかりました。理由と行為の均衡の崩れは、行為の理由づけにかかわる共同体の力と個人の力のあいだに対立があって、どちらか一方が他方よりまさるときに起こる(246, 247)。このようにして、上の 233 の(ア)に対する答えが得られたわけです。
遅疑逡巡と軽挙妄動
249. 以上で 233 の(イ)と(ウ)に答える準備が整いました。現代日本語人の共通の特徴が、(イ)ある条件下では遅疑逡巡をもたらし、(ウ)別の条件下では軽挙妄動をもたらすことを示せばよい。なお、遅疑逡巡は、この場合、正当な理由があるのに権力行使しない状態を言います。軽挙妄動は、正当な理由がないのに権力行使する状態を言います。
250. 理由づけと行為の均衡の崩れという形で共通特徴を抽出したとき、同時に、均衡が崩れる一般的なメカニズムも明らかになりました。行為を理由づける際、共同体の水準の力と個人の水準の力のどちらがまさるかに応じて、そうする理由があるのにそうしない(遅疑逡巡)、または、そうする理由がないのにそうする(軽挙妄動)が引き起こされる。
251. 権力行使にかかわる遅疑逡巡は、したがって、共同体の水準では権力行使する十分な理由があるけれど、個人の水準ではそうする理由がない、というときに、個人の力が共同体の力にまさった結果として生じる、と考えられます。ただし〝まさった〟のは、ごくわずかだったはずです。遅疑逡巡は、実行しないでぐずぐず先延ばしにすることです。実行しないとキッパリ決めることができるほど、個人の力が共同体にまさってはいないでしょう。
252. 同様に、軽挙妄動は、個人の水準では権力行使する理由はないけれど、共同体の水準ではそうする理由がある、というときに、共同体の力が個人の力にまさった結果として生じることになります。この場合、〝まさった〟のは、わずかではないはずです。軽挙妄動は、深い考えもなく前のめりに行動に突っ込んでいくさまをいう。共同体の力が個人を引きさらっていくほど強いことを仄めかしています。
253. 以上で、心理的メカニズムとしては、遅疑逡巡と軽挙妄動をもたらす条件を特定できたので、233の(イ)と(ウ)に答えることができます。すなわち、遅疑逡巡は、個人の力が共同体の力よりわずかにまさるという条件下で生じる。軽挙妄動は、共同体の力が個人の力よりはるかにまさるという条件下で生じる。
254. これでめでたしめでたしとなるかというと、そうは行きません。元々の問題は、20余年前に観察された日本語人は、まっとうな理由があっても暴力行使ができないように見えた、それに対し、現在の日本語人は、ろくな理由がなくても暴力行使しそうに見える、どうなっているのか、ということでした。すると、本当の問題は、次のように言い表されます。
255. 20余年前の日本語人は、個人の力が共同体の力よりわずかにまさるという条件下に生きているように見えた。しかるに、現在の日本語人は、共同体の力が個人の力よりはるかにまさるという条件下に生きているように見える。何がどうしてこうなったのか。
5.むすび
256. この問いに答えるには、過去と現在について、日本語人の生活と思想の条件を歴史的に見わたさないといけない。どういう歴史的条件があって、個人の力が共同体にわずかにまさる状態から、共同体の力が個人にはるかにまさる状態に移行したのか。
257. この歴史的な探索は、次回に行ないたいと思います。1970年前後から現在にいたる日本語人の生活環境と思想状況をふりかえります。といっても現代史を網羅的にあつかうのはもちろん手に余るので、私が体験したかぎりで、同時代がどのように感得されたのか報告する予定です。公開は2月14日(土)をとりあえず予定します。

