[4の3] ほんとうの自己と所有権
(西洋近代と日本語人 第4期 その3)
1.はじめに
94. 前回は、「〝理由のある暴力〟の正しさに自信が〝有る〟状態」(4の2:60)とはどういう状態なのかを考えるところから話を始めました。なお、〝理由のある暴力〟とは、〝大多数の人が肯定するような理由のある暴力〟という意味です。
95. 〝理由のある暴力〟に典型的に該当するのは、自己保存のための暴力でしょう。なわばりをめぐって争ったりするのは、生物界に広く見られる自然な行動です。人間についても自己保存のための暴力行使を肯定することは、思想史上でもよく見うけられます。前回は、トマス・アクィナスの自己保存を命ずる第一の自然法、ホッブズの自然権としての暴力、ロックの自然法にもとづく懲罰権の行使としての暴力、といった例を挙げました(4の2:75)。
96. すると、「自己保存のために不可欠であると感じられる度合いが大きいほど、人は暴力行使の正しさに自信をもつ」(4の2:78)という仮説を立てることができます。自己保存の欲求は、生き物としての人間の自然な身体反応(反射的応答)に根ざしている。かりに自己保存を目的とする暴力が、反射的にではなく意図的に発動された場合でも、自分はそのようにあるほかなかったという意味で、自分の正しさを自認することが可能だと考えられます(同:65)。
97. しかし、防禦のための自然な反射的反応と、意図的な行為とのあいだには、無視できない違いがある。殴りかかって来る相手を反射的に払いのけるのは、〝そうあるほかない〟と万人が認める正当性をそなえています。この正当性は、身体がとっさに反応したという自然の事実の動かしがたさに根拠がある。
98. 他方、殴りかかって来る相手に意図的に反撃した場合は、別の選択もあり得たのではないかという疑いが成り立ちます。意図的な行為には、〝自然の事実の動かしがたさ〟は認められません。その人がそのように意図したのは正しかったということを、誰にもわかるように示さないといけない。
99. だから、意図的な反撃については、別の選択肢はなかったという理由づけが必要になります。そして、およそどんな理由づけに対してもなんらかの批判は成り立つので、自己保存のための意図的な暴力行使は、結局、どのように理由づけしようとも批判をまぬがれないことになる。これは興味深い問題ですが、今は書き留めておくだけにします。
100. さて、以上から、「〝理由のある暴力〟の正しさに自信が〝有る〟状態」(上掲)とは、それが自己保存を目的としたやむを得ない暴力行使であるという理由づけが、少なくとも行為者自身のなかでは成り立つ状態である、といえるでしょう。前回は、ここから、「現代日本語人は「たとえ〝大多数の人が肯定するような理由のある暴力〟であろうとも、自信をもって振るうことができない」」(4の2:51)という元々の問題を考えるために、西洋近代と近代日本を対比して、国家的暴力と自己保存との関係を考えました(同:77-91)。
101. 前回述べた西洋近代と近代日本の対比は、学界の定説といったものではなくて、私が思いついたことです。根拠になる思想史の断片はいろいろあるつもりですが、そういう断片はそれぞれ文脈を異にしており、私の頭のなかで自分の思いつきの根拠として独自に選び出されているにすぎない。というわけで、以下、節をあらためて前回の内容をふりかえり、思想史的な断片と関係づけて、私の思いつきの裏づけを試みることにします。
2.革命と個人
市民革命と科学革命
102. 西洋の近代国家は、人々の信念体系と社会制度の大変動のなかで設立されました。つまり革命のなかから生まれた。16世紀の宗教改革に始まり、17世紀には英国で、18世紀にはフランスおよびアメリカで、いわゆる市民革命を経て近代国家がつくり出された。これは、高校の世界史で習う範囲のことで、定説というか、常識の類いだと思います。
103. 西洋の16世紀から17世紀には宗教と政治の領域で革命が相次いだだけではなく、自然についての知識体系も根本から変わります。17世紀前半から後半にかけて、それまで優勢だったアリストテレスの著作にもとづくスコラ哲学の体系にかわって、あらたに数学と実験や観察にもとづく近代科学の体系が作りあげられた。この移行に深く関与したのが、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)、ルネ・デカルト(1596-1650)、クリスティアン・ホイヘンス(1629-1695)、ロバート・ボイル(1627-1691)といった人々の活動でした。
104. この知識体系の根本的な変化は、政治的な革命とは違って、暴力をともなうことなく、時間をかけて徐々に起きた変化です。しかし、しばしば科学革命(the scientific revolution)と呼ばれます。この革命的変化の到達点を示すのが、1687年に刊行されたニュートン(1642-1727)の『自然哲学の数学的原理(Philosophiae Naturalis Principia Mathematica)』です。ニュートンの物理学体系は、科学的知識とは何なのかを定義する指標としての地位を長く――私見では現在まで――占めることになりました。
105. 前回は、科学革命と政治革命に共通するのは、「あらたな自己の発見」(4の2:79)であって、近代科学と近代国家は「あらたな自己のありかたを守り、育て、伸ばしていくために生み出された」(同:80)と述べました。
106. これは、前々から心にあった言葉ではなく、このとき勢いで書いたものです。定説ではない。ただし、落ち着いて考えてみても、いささか短絡的ではあるものの、まったくの見当はずれとも思われません。でも、こう主張するためには、それなりの裏づけが必要でしょう。以下、それを試みます。今回は政治革命と個人の問題を考えます。科学革命については次回以降にまわします。
市民革命と所有する個人
107. 前回、政治的な革命のなかで見いだされたのは、所有権をもつ個人であると述べました(4の2:79)。ジョン・ロック(1632-1704)は、『統治二論 第二篇』の第5章27節で次のように言っています。
「すべての人間は、自分自身の身体において所有権をもっている(Every man has a property in his own person)。この身体に対しては、本人以外のだれもどんな権利ももっていない。その人の身体の労働とその両手の働きは、固有にその人のものである(properly his)と言ってよい。」*
人は、自分自身の身体を所有することから始まって、「身体の労働とその両手の働き」を固有に自分のものとする、と述べています。所有権は、人が自分の身体を所有していることに始まる。
注*: 訳文は、『世界の名著 ロック/ヒューム』所収の宮川透訳にもとづきます。挿入の原文は、John Locke. Two Treatises of Government. Edited with an introduction and notes by Peter Laslett, second edition. Cambridge University Press, 1960. によります。
108. この一節は、以前にも引用したことがあります。村上隆の Miss ko²(「ミス・ココ」と読むんだろうか?)という作品を論じたときのことです(1の18:4.266-4.273)。Miss ko² は、メイド服姿の美少女フィギュアで、戦うときには美少女サイボーグとして飛行体に変身します。少女の身体が、平時は性的な媚びの演技を求められ、戦時はメカニズムの部品たることを求められる。この人体造型は、私には、個人が「自分自身の生きている身体を自分で所有することができない」(同:4.270)状況を体現しているように思われます。現代日本は、17世紀にロックが記述したありかたとはおおきく違っている。これは今後とも心に留めておいたほうがいいことです。
109. 上の引用を解説すると、第一の文「Every man has a property in his own person」は、各人の身体(his own person)においてすべての人はみずからに固有のもの(a property)を持つ、と言っています。「person」は「人格」とか「人物」などと訳されますが、ここではオックスフォード英語辞典などにもある「個人の身体 an individual’s body」の意味に取るのが適切でしょう。また、「property」は、可算名詞として「特性、性質」という訳と、不可算名詞として「所有、所有物、所有権」という訳が可能ですが、ここではこの二つをひっくるめて「固有のもの、固有性」としておくと全体の見とおしがよくなります。
110. すると、第一の文は、「すべての人間は自分の身体において、ある固有性をそなえている」という意味になる。なお、この箇所の定まった訳としては「ある固有性をそなえている」が「所有権をもっている」になってしまうのは、この一節が所有権一般を論ずる文脈にのっているからです。
111. Aさんは、Aさん自身の身体を、動かそうと意志するだけで動かすことができます*。だが、他人は、動かそうと意志するだけでAさんの身体を動かすことはできない。AさんとAさんの身体は、このように固有の結びつき(a property 固有の特性)をもっていて、他人はAさんの身体を同じように利用しうる立場にはない。「本人以外のだれもどんな権利ももっていない」わけです。
注*: ロックは、意志と身体運動のつながりについては、『統治二論』ではなく『人間知性論』の2巻21章7節および73節、あるいは、同23章28節などで語っています。
112. ただし、自分の身体の固有の特性、つまり意志と身体運動の固有の結びつきから「権利」の有無に話が及ぶところには飛躍が感じられます。ホッブズ(1588-1679)への暗々裏の反論という文脈を補わないと、ここで「権利」が出てくる理由がわかりません。
113. ホッブズは、自然状態とは各人の各人に対する戦争の状態であって、「各人は、他人の身体さえも含むあらゆるものに対して権利をもつ」(『リヴァイアサン』第1部第14章)*と言いました。自然状態においては、自分のために、他人を、その身体も含めてどう利用してもよい。そういう権利が誰にでも認められる。単純にいえば、これは他人を殺したってかまわないということですから、ずいぶん怖ろしいことです。
注*: 訳文は、ちくま学芸文庫版『リヴァイアサン 上』の加藤節訳によります。
114. これに対し、ロックは、自然状態においては理性こそが自然の法なのであって「理性にちょっとたずねてみさえすれば、すべての人は万人が平等で独立しているのだから、誰も他人の生命、健康、自由あるいは所有物をそこねるべきではないということがわかる」(『統治二論 第二篇』第2章6節)と述べました。人間理性、即ち神の定めた自然法によれば、本人以外のだれも他人の身体の生命、健康、自由を侵害する権利をもっていないわけです。
115. この自然法の定めを前提としつつ、人間がひとつの身体をもって生存するという自然の事実から、その身体は本人だけが自由に動かしうるという固有性(a property)があることに着目し、労働の成果は身体を動かした本人の所有するもの(property)となると結論される*。こういう論法で個人の所有権の基礎づけが行なわれたわけです。
注*: ロックによる所有権の基礎づけに、「property」という言葉の多義性が好都合に利用されているという指摘は、Alan Carter, The Philosophical Foundations of Property Rights. Harvester Wheatsheaf, 1989. の第2章によります。
116. この考え方によると、所有権は個人と神(自然法)が存在すれば成立します。つまり、国家の形成以前に自然状態ですでに成立する。国家は、個人の所有権を安定的に維持する仕組みとして、いいかえれば各人の所有権が国内の隣人に脅かされず、国外の敵に侵害されないように、人々が相互に契約して組み立てるものにほかならない。これが、17世紀の市民革命のなかで発見された個人と国家のあらたな関係でした。
117. 人間が身体においてある固有性をもち、次いで身体活動(労働)を通じて所有が成立し、所有権を安定させるために国家を営む、という考え方は、現代思想にも「自己所有権(self-ownership)」あるいは「所有的個人主義(possessive individualism)」といった言葉で受けつがれています。これらは自由主義の国家観を基礎づける概念として、リバタリアン(原理主義的自由主義者)からは肯定的に、マルクス主義に影響を受けた論者からは否定的に、論じられています。*
注*: 下川潔(1992)「いわゆる「自己所有」原理の考察」『創文』335号。川本隆史(1992)「自己所有権とエンタイトルメント ――私的所有権の光と影――」『法哲学年報』1991巻。
3.個人と所有権
所有の主体と客体
118. 前回は、この所有権の基礎づけを前提すれば、近代国家を守るための暴力行使は、身体に根ざした自己の所有権を守ることに直結する。それゆえ、「国家的な暴力行使が、ほんとうの自己を守ることと結びつく」(4の2:81)と述べました。ただし、これは「うまくいけば……結びつくという筋書き」(同:82)に過ぎないとも注意しました。
119. この点を掘り下げて考えてみます。自己の所有権とほんとうの自己のあいだには、無視できない違いがある。というのも、「すべての人間は、自分自身の身体において所有権をもっている」(上掲)と主張される場合、ほんとうの自己は、所有される身体の方ではなくて、それを所有する主体の方であると考えられるからです。
120. それゆえ、国家的な暴力行使が〝所有する個人〟を守ることになるのは、所有の客体である身体に対する所有権を守ることにおいてではありません。所有の主体、すなわち所有する個人それ自体を守ることにおいてです。所有権を守ることと、所有する個人を守ることとは違うことです。国家が所有権は守るが、所有する個人は守らないという状況は、容易に考えることができます。
121. 対外戦争は国家的な暴力行使の一形態です。対外戦争において、体制の一部門としての個人の所有権を守るために、個人それ自体が犠牲になることは十分考えられる。ヴェトナム戦争は、一面ではそういう戦争でした。アメリカ合衆国は、私的所有を否定する共産主義イデオロギーがアジアを席巻することを異様に恐れた。その結果、ヴェトナム(とその近隣諸国)とアメリカ(とその同盟国)の多数の個人が死なねばならなかった。百歩譲って、アメリカ国民は自分の所有権を安定的に維持するために契約を結んで国家をつくったのだと仮定しても、自分(たち)の所有権を守るために自分が死んでしまったのではなにもならない。これは本末転倒です。
122. この本末転倒を打ち消すためにすぐに思いつくのは、所有権を守ることこそほんとうの自己の実現なのだ、自分が死んだとしても所有権が守られればほんとうの自己は実現されているのだ、だからそれでいいのだ、という論理です。自分の所有権を守るために自分が死んでもいいというのはあまりに馬鹿々々しいので、これは倒錯にしかみえません。
123. こんな倒錯に乗せられる愚か者などいるはずはないと感じられますが、〝所有権〟を〝神〟に替えれば、この論理のままで通用しそうです。すなわち、神を守ることこそほんとうの自己の実現なのだ、自分が死んだとしても神が守られれば、自己は実現されているのだ、だからそれでいいのだ*。これはどういうことなのか。
注*: ここで「神」の代わりに「國體」をおいたのが昭和戦前期の日本です。
近代国家と神
124. 少し立ち止まってふりかえると、ロックが所有する個人を見いだしたことは、たしかに思想史において重要なことだった。所有権の基礎づけを身体の自己所有権(self-ownership)に求めたことも、現代にまで影響を及ぼす卓抜な着想だった。これはよしとしておきます。
125. しかし、先述の仮説、すなわち「自己保存のために不可欠であると感じられる度合いが大きいほど、人は暴力行使の正しさに自信をもつ」(4の2:78)という仮説の下で、国家的暴力行使の正しさの保証を当該の暴力と自己保存の結びつきに求めるならば、近代国家という体制を守る暴力は、個人の自己保存にはかならずしも結びつかない。その暴力は、直接には近代国家という体制が備える所有権等の制度を守ることでしかない。端的にいって、個人の所有権を守ることは、けっして所有する個人それ自体を守ることではない。ヴェトナム戦争はそれを劇的に示した。こういうことになっているわけです。
126. すると、「国家的な暴力行使が、ほんとうの自己を守ることと結びつく」(上掲)ためには、「キリスト教的西洋近代において、ほんとうの自己の実現をもたらすのは、あくまでも神そのものと個人の結びつき」(4の2:82)であることに鑑みて、国家と神との関係をとらえなおす必要があることになります。
127. ここまでの議論にそって理屈でしゃにむに押しきるなら、国家の暴力行使がほんとうの自己の保存と結びつくためには、国家が神の代わりになればよい、ということになります。国家形成以前の自然状態における神と個人との結びつきの代わりに、国家形成以後の統治の成立した状態において、国家が神の役割を演じて個人と結びつけばよい。そういう擬態が成立すれば、国家の暴力行使がほんとうの自己の保存を意味することも可能になります。
暫定的な見とおし
128. 順を追って考えているうちに、国家的暴力を正当化するためには近代国家は神の役割を演じなければならない、という結論に行き着いてしまいました。正直、自分でもとまどっています。
129. 近代国家は、自然状態における神と個人の結びつきを前提にして、諸個人が契約を通じてつくりだした〝共通のよきもの Commonwealth〟にほかならない。これはあくまでも世俗的な権力を委託された世俗的な組織であって、神と個人の神聖な結びつきの下位に位置づけられる。こういう常識(だと思いますが)を前提に考えてきたのに、案に相違して、国家的暴力を正当化するには国家が神聖な権力を演ずることが必要だ、ということになってしまった。これはどう収拾したらいいのか。
130. 私の念頭には、かねてから気にかかっている二つの思想史的な事実の断片があります。ひとつは、11世紀末から12世紀にかけて、カトリック教会が叙任権闘争に勝利をおさめ、世俗君主の介入をしりぞけて教会統治を確立したこと(「教皇革命 Papal Revolution」)が、近代国家の濫觴である、という見方です。この見方は、ハロルド・バーマンの『法と革命 1』*やジョゼフ・ストレイヤーの『近代国家の起源』**で述べられています。
注*: Harold J. Berman. (1983). Law and Revolution: The Formation of the Western Legal Tradition. Harvard University Press. 邦訳 ハロルド・バーマン『法と革命 1』宮島直機訳、中央大学出版部2011。
注**: Joseph R. Strayer. (1970). On the Medieval Origins of the Modern State. Princeton University Press. 邦訳 ジョセフ・ストレイヤー『近代国家の起源』鷲見誠一訳、岩波新書1975。
131. もうひとつは、おなじく教皇革命のころに、罪を告白し悔い改める告解(confession)というキリスト教会の儀式(秘跡 sacrament)が、その意味合いを微妙に変えたという事実です。これはバーマンが『法と革命 1』で述べています。バーマンによると、告解は、原始キリスト教会以来、神と和解するための秘跡であり、罪の償いのための行ないは、神との関係を作り直すという意味をもっていた。聖職者は、罪人が神との関係を作り直すために、その仲介をするのみだった。しかし、カトリック教会が教会内の統治を確立したころに、告解は、罪を赦されるための償いという方向にその意味の重点を移した(Berman 1983, p.172)。いいかえれば、教会そのものが罪を聴取し、罰を与え、償いを受けいれる当事者となる方向に意味合いが変わった。
132. この二つの事実を合わせるとこうなります。11世紀から12世紀の教皇革命以降、近代国家の祖型としてのカトリック教会は、罪人の告白を聴取して神との和解を仲介するのではなく、神を代替して罰を与え罪を赦す当事者として振る舞うようになった。こんな絵柄が浮かび上がってきます。
133. 少し大胆ですが、さらに次のように推論できます。近代国家は、神と個人の先行する結びつき(自然状態)を前提としつつ、人々の契約によって世俗権力として成立するとされながら、実は、神を代替して個人のほんとうの自己に関与する機能(個人の内面を聴取し、罰や赦しを与える機能)を、そもそもの始まりから備えていた。プロト近代国家としてカトリック教会が、教皇革命という革命のなかでその機能を身に帯びるようになり、それは宗教改革と市民革命を経て近代国家にまで連綿と受け継がれた。
134. このような歴史的経緯を想定することが許されるなら、結局、次のように主張できそうです。近代国家は、ある程度まで神の役割を演じて個人に関与する体制である。それは人々のほんとうの自己に関与しうる位置を占め、国家を守るための暴力行使は人々のほんとうの自己を守るためにある、という主張を人々に受けいれさせることに、ときには成功してきた。
4.むすび
135. 近代国家が「あらたな自己のありかたを守り、育て、伸ばしていくために生み出された」(上掲 105)というやや短絡的な断定は、補足が必要なようです。すなわち、近代国家は聖なる権力を幾分か身に帯びることによって、〝自己のありかたを守り、育て、伸ばしていく〟というよりは、人々のほんとうの自己を管理し掌握する体制として機能してきた。どうもこういうことらしい。
136. これは近代国家の暗黒面の指摘といっていいでしょう。だから、補足というより書き換えに近いかもしれません。
137. しかし、この暗黒面がこのとおりの仕方であったのかどうか、歴史的な裏づけはまったく足りていません。神を代替する機能が、「宗教改革と市民革命を経て近代国家にまで連綿と受け継がれた」(上掲 133)のかどうか、確かめないといけない。
138. 私は、近代ヨーロッパの革命における世俗権力と神聖権力の対立と融合、分離と交錯について、残念ながらほとんど知りません。だから、近代国家に神を代替する機能が受け継がれたかどうか確かめるといっても、途方に暮れるわけです。でも、ひとつだけ、次回に紹介できそうな話題があります。
139. 以下のようなことを、ハロルド・バーマンが『法と革命 2』で述べています。ルター派の宗教改革においてカトリック教会の権威が否定されたために、ドイツの数多の領邦国家では、教会の管轄した社会生活の領域を世俗君主が管轄するようになった。これは聖なる権力の世俗化であったが、同時に世俗の権力の神聖化をも意味していた。世俗権力が聖なる権力を併せもつ現象は、近代の初頭に、こんな仕方で生じていたかもしれません。
140. 次回は、12月13日土曜日の公開をいちおう予定します。あれこれ考えていると、ともすれば自分がよく知らないことを論ずるはめになる。どうなっていくんだろうと訝しみながら次回にそなえます。

